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PSA
2008-12-11 Thu 22:18
プジョーとシトロエンのグループ会社PSAであることをご存知の方は多いと思います。
しかしPはPeugeotだとするとAは差し詰めAutomobileの略でSはCitroën…な…訳ありませんよね(笑)
正式名称はPeugeot Société Anonymeといいます。日本語では「プジョー匿名会社」と訳します。何で「匿名」なんでしょうね。” Société”は直訳ならば協会が妥当です。
PSAグループで有名なのは言うまでもなくプジョーとシトロエンですが、この他にも機械製造や金融などを含む企業グループであり、例えばその中の一社” GEFCO”は物流会社です。

さて、プジョーとシトロエンが有名でどちらも自動車メーカーですが、以前にもう1社自動車メーカーが入っていた事をご存知でしょうか?
それがパナール・ルバッソール(Panhard et Levassor)です。

1876年にドイツでニコラウス・オットーがガソリンエンジンを完成させると、それを馬車などに搭載してゴッドリーブ・ダイムラーが試験運転し、1885年には特許を取得します。同年、やはりドイツのカール・ベンツが三輪の車体を製作して、これに改良したガソリンエンジンを搭載して発表。これがダイムラー社とメルセデス・ベンツ社の始まりです。因みにオットーが作ったエンジンは4サイクルエンジンだったため、4サイクルエンジンを「オットーサイクル」とも呼びます。
普通ならダイムラー社とメルセデス・ベンツ社、あるいはどちらかが世界初の自動車メーカーとなって不思議ではありません。ところが事業化になかなかできず、パナールに先を越されてしまうのです。

1891年に本格的な自動車の生産を実現したのがパナールで、量産車として世界初はプジョーで、メルセデス・ベンツ社が本格的に自動車の生産に入るのはそれより遅かったのです。
パナールは極初期のプジョーにも開発用にエンジンを供給していたようです。この年に生産したのはパナールが6台、プジョーが5台で、自動車産業元年の生産数は11台でした。
ドイツで発明された自動車がフランスで早く実現化した原因に、当時、ナポレオンが砲兵隊を素早く展開できるように、道路網の整備に力を注いだためヨーロッパでもフランスが最も道路整備が進んでいたからだとされています。またパナールの取引先だった弁理士エドゥアール・サラザンがエンジンの生産ライセンスを取得してパナールに生産の依頼をしたために、逸早くフランスにおいて自動車の生産が開始されることになったのです。実はこのサラザンは1887年に急逝してしまうのですが、ライセンスはサラザンの妻ルイーズに相続され、何とルバッソールと結婚したためにパナールのものとなったのです。

おっと、ルバッソールの話をしていませんでした。

パナールの極初期はいわゆる木工を主に生業とする会社でした。1845年にパリの郊外、イブリーにジュール・ペリンが設立した会社でした。1867年、エコール・ポリテクニーク(仏理工系の高等教育機関)出身のルイ・フランソワ・ルネ・パナール(Louis François Rene Panhard)が入社すると、パナールの技術はベリンの信頼を得ることとなり、間もなく社名を"Perin, Panhard & Cie" と改めます。1873年にパナールの友人であるエミール・ルヴァッソール(Emile Levassor)が入社し、ベリンの引退によって、社名を "Panhard et Levassor" と改め、その後、社業を拡大し、機械工作分野に進出。1880年代にはミシンの生産を行っていました。

先にも述べましたが1887年サラザンの依頼によってエンジンのライセンシーとして転進したパナールでしたが、ダイムラーが4輪の自動車を開発していることを聞きつけると、パナールも開発に着手します。

最初はダイムラーを真似てリアエンジンの自動車を開発し1890年に完成していたのですが、どうも思惑通りの性能が出ません。特に重量が集中するため安定性に問題があったようです。そこで改良策として1891年に完成させたのが
最先端に置かれたエンジンの後方に、クラッチ、トランスミッションを縦一列に配置し、ドライブシャフトとデフ機構を介して後輪を駆動させるFR方式を採った最初の自動車なのです。
当時はまだ馬車を参考にして開発されていて、車体のレイアウトは馬のない馬車そのものだったのですから画期的と言えたと思われます。

1895年には現在の我々がよく知る「密閉型トランスミッション」
その後、エンジン前方の箱型ラジエター、丸いステアリングと傾斜したコラムを用いてアッカマン・ステアリングを採用し、ほぼFRレイアウトを完成させてしまいます。因みに丸いステアリングの以前は” ティラー式”という棒状のステアリングでした。簡単に言うと小型船舶の舵みたいな感じと思っていただくと良いでしょう。

1902 Oldsmobile Curved Dash
1902 Oldsmobile Curved Dash


トヨタ博物館に展示されている1902年型パナール・ルヴァッソールB2で、現代に至るFRレイアウトを完成させたことになります。機会があればぜひご覧になってください。

Panhard et Levassor B2
1901 Panhard et Levassor B2


ところで、自動車の歴史はすなわち「レース」への歴史でもあります。このような自動車の黎明期にあってもレースが行われていたことはジツに驚きですが、日本と圧倒的に違っていたのはその経済力であり、道路整備の遅れだったと思われます。
パナールが満足の行くクルマを生産した3年後の1894年、パリの新聞社の主催による世界初のモータースポーツ・イベントが行われます。しかし、このイベントは速さを競うレースではなく、「旅行者にとって安全で操縦し易く、かつ走行経費の少ない車」が優勝する」というトライアルで、パリ~ルーアンの126Kmを12時間半以内に走行することが規定とされていました(つまり時速10Km以上)。エントリーは実に102台に達し、その動力もガソリン・エンジンや蒸気機関、電気モーター以外に、ペダルやゼンマイ、振り子、果ては、「圧縮空気」や「引力」(!)、「乗員の体重」といった怪しげな動力も大挙登場してきましたが、結局事前のテストを経て、自力での走行が確認されようやく参加できたのは、そのうちの25台に過ぎなかったとか。お昼には、みんな揃って昼食会なんかも開かれた優雅なレースだったようです。
1位でフィニッシュしたのは、ド・ディオン伯爵。その人が運転したド・ディオン・ブートン蒸気自動車でした。しかし、蒸気自動車はドライバー以外に釜焚きを必要で「レギュレーション」に合わない、という理由から2位に落とされ、2位と3位でフィニッシュしたプジョーとパナールが共同優勝となります。ちなみにこのときのド・ディオンの平均速度が18.7Km/h、プジョー 18.5Km/h、パナール 17.9Km/hという記録だったそうです。
この日のレース終了後、ルーアンで開かれた夕食会の席上、ド・ディオン伯爵の提唱が縁となり、世界で始めての自動車クラブである ACF(フランス自動車クラブ)が誕生しました。これが、今日のFIA(国際自動車連盟)の前身です。このド・ディオン伯爵が発明したリアサスペンションがかの有名なド・ディオンアクスルです。

1895年には早くもこのACFが主催する、世界で初めての自動車スピード・レースであるパリ・ボルドー往復の都市間1180Kmレースが開催されます。元々このレースは、ガソリン・エンジンに対する蒸気自動車の雪辱を狙ったド・ディオン伯爵の主導によるもので、レースは当時の二大原動力の激突となりますが、結果はガソリン・エンジンの圧勝に終わりました。21台の出走車のうち、1台を除く全ての蒸気自動車と電気自動車は途中リタイヤし、完走車9台のうち、実に8台をガソリン自動車が占めたのです。結局世界最初の自動車スピード・レースであると同時に、陸上交通におけるガソリン・エンジンの優位を決定付けた歴史的な契機ともなりました。
そしてこのレースに1位でフィニッシュを果たしたのが、実走49時間のほとんどを、一人で連続運転するという超人的な離れ業をやってのけたのが(この時代の劣悪な道路事情とアセチレン・ランプやソリッド・タイヤ、ティラー式ステアリングなどの装備で2昼夜!)もう若いとはいえない52歳のルヴァソールの運転するパナール・ルヴァソール・フェニックスでした。平均速度は24Km/h。しかし、このクルマは2シーターだったため、4シーター限定だったレギュレーションには合致しておらず、2位表彰となります。

しかし1897年に屋台骨だったルヴァッソールが急逝すると、パナールに迷いが生じて来ます。
当時、メルセデス・ベンツが好調で大型の高級車路線へ方向転換して行くのです。おそらくこの時期のパナールはルヴァッソールという技術的にも経営的に引っ張ってきた人物を失い、恐れや迷いが生じていたのでしょう。つまり「成功例を模倣する」非常に凡庸な経営になってしまうのです。
しかし、時代はそう甘くはありませんでした。新しいテクノロジーである自動車は年々、ヴァージョンアップを重ね、新しい技術に置き換わり、差し詰め今のPCのような状態だった筈です。
しかしパナールといえば、旧式な木製フレームのままであったり、依然4気筒エンジンに頼っていたりと徐々に時代遅れになっていくのです。
極め付けは1910年以降に異常に拘った“スリーブバルブ”だと思われます。
チャールズ・ナイトが考案した「ダブル・スリーブ」方式は静粛性やエンジン出力の向上が長所で、当時はまだ現在一般的なパペットバルブ方式の出力が思わしくなかったことが、更にパナールがスリーブバルブに固執する原因になったと思われます。スリーブバルブというのは、簡単に言うとエンジンブロックの中にスリーブの通る給排気通路を設け、ここをスリーブが通り開いた穴から給排気しようというものです。当然、スリーブによって密閉することから摩擦係数は増え、高回転にも向きませんでした。しかも圧縮比と出力の関係もよく解っておらず「圧縮比を上げると出力が落ちる」と誤解されていた時代です。この形式でパペット式にしたものがT型ヘッドのサイドバルブですが、OHV、ペントルーフ燃焼室と効率化の糸口が見付かると、あっと言う間にスリーブバルブは旧式化してしまいますが、何故か1930年以降もパナールは固執し続けます。もちろん、パナールがスピードへのチャレンジに消極的だったのではありません。1925年には4.8リッターのレコードブレーカーで平均185.51km/hを記録するなど、当時の国際記録を多数更新しています。

1930年代に入ると32年には前面窓の隅に視界確保のためパノラミックウインドウを採用したPANORAMIQUEや、36年のセンターステアリング配置と特異な流線型スタイル・バックボーンフレームに全トーションバースプリングのDYNAMICなど、個性的な設計のモデルを次々に登場させています。しかしこれらの高級車も品質こそ優れていたものの、既に改良の限界で時代遅れとなっていたスリーブバルブエンジンを使用し続けており、市場での競争力を失っていきます。もし、初期のようにレースの世界に身を置いていたなら、おそらく進む道は違っていたでしょう。皮肉なことに模倣しようとしたメルセデスもレースへの世界へ進出し、その技術力で顧客を確保することに躍起になっていたのですから。

PANORAMIQU
PANORAMIQUE.jpg


DYNAMIC
1936 Panhard Dynamic X76


多くの自動車メーカーがそうであったように、第2次大戦後、疲弊していたメーカーは小型大衆車への転進して生き残りを図ろうとしました。多くの高級車メーカーが消えていくなか、辛うじて生き残っていたパナールも小型のFF車で生き残りを賭けます。
しかし、元より少しズレテイルというか個性が強過ぎるパナールがやろうとする事は、あくまで独創的でした。
1946年、J・A・グレゴワール(Jean-Albert Grégoire)が、戦時中から構想していたアルミニウム多用の軽量な前輪駆動車コンセプト「アルミニウム・フランセ・グレゴワール」(AFG)を、ほぼ忠実に量産化したディナXを発表。アルミ系軽合金ALPAX製のプラットフォーム型セミモノコックに、後に高級車ファセル・ヴェガを生産したファセル・メタロン社に外注製造させたアルミボディを組み合わせ、600〜850ccの空冷水平対向エンジンを搭載していました。詰まる所、小型大衆車は名ばかりで手法は今までの高級車と全然変わっていなかったのです。
またエンジンやサスペンションも奇天烈な独創路線の王道で、高性能でもコストを落とすことができなかったばかりか、旧態依然の生産規模しか持ちませんでしたから、当然効率も上がらず当時のルノーやシトロエンのひとつ上のランクを狙っていたとはいっても、市場で成功することはありませんでした。

DYNA X
Panhard_dynaX.jpg


一方、このディナXに搭載された水平対抗2気筒エンジンは高回転型で高い性能を発揮し、606ccから28PSの出力を発揮。DB(Automobiles Deutsch et Bonnet)などの軽量スポーツカーに流用されル・マンでは「性能指数賞」を受賞しています。

Panhard DB tank
tank_DB_Panhard.jpg


このDBですがシャルル・ドゥーチェ (Charles Deutsch)とルネ・ボネ (René Bonnet)によって設立されたメーカーでしたが、次第にミッドシップカーかFFスポーツかで意見が別れ、ドゥーチェは1961年に会社を去り、「CD」を設立すると、DBはオトモビル・ルネ・ボネになりますが65年にはマトラに買収されています。
CDは64年のル・マンに” CD Panhard LM64”というプロトタイプを投入しています。僅か1000ccにも満たないエンジンで250km/hをマークしたマシンです。
その秘密はCx値が0.21という空力と乾燥重量がわずか570kgのボディーが与えた恩恵でした。

CD Panhard LM64
panhard_cd_lm64_profile.jpg


機会をみてこのマシンも採り上げてみようかと思いますが、今回はパナールですのでパス。

さてCDなどに見られたように軽量であることが、エンジンをむやみに大出力大排気量化しなくて済む方法でした。日本で有名なのはトヨタ 800スポーツですが、パナールもこの路線がお気に入りでした。
ディナXで早くもこの手法を採り入れていますが、56年になるとデュラリノックスと呼ばれるアルミ・マグネシウム合金を車体に使用したディナZを発表します。デュラリノックスはプレス加工が容易に行える画期的な合金でした。反面、溶接が難しく捻れが加わるとひび割れました。また高価な材料であったためコストは更に増大していきます。しかし、デュラリノックスを使ったお陰で、車体は他社の2000ccクラスのボディーでありながらその車体重量はわずか650kgしかなく、851cc42PSのエンジンで最高速度は130km/hを出すことができたのです。
世界的に見てもアルミ合金の車体を実用化した初のディナZですが、あまりにそのエキセントリックな設計思想と、すでにルノーやシトロエン、プジョーなどに生産力や近代化で大きく遅れており、市場で大きなシェアを得ることはありませんでした。更にコストダウンからディナZはどんどん外板をスチール化され、最終型ではそのほとんどがスチール製となってしまうのです。

DYNA Z
1958-Citroen-Dyna-Panhard-On-the-Road-ad.jpg
Panhard_dynaZ.jpg

60年以降には重量が800kgを超え完全なスチールボディーになった時点で「PL17」と名前が変更されます。

PL17
panhard_dynaZpl17.jpg

1955年には慢性的経営難に陥っていたパナールをシトロエンが傘下に収めることで辛うじて倒産が回避できていた状態でした。実際には工場の稼働率を上げるために2CVの生産を請け負っていたのですが、このような事をしても経営は上向きませんでした。
同じPL17のシャシーを用いた「24シリーズ」を64年に発表。

24
panhard24b.jpg
panhard24ct.jpg

デュアルライトやフロントの処理は打って変わって流麗なデザインとなり、その後のDSとの共通性をみることができます。おそらく24がDSのデザインスタディーとなったことは明らかで、DSの下に位置するクーペとして67年まで生産されます。
その生産数は28,945台と言われています。
しかし24を持ってしても経営の悪化を止められず、24を発表した翌年の65年には乗用車部門がシトロエンに吸収され67年には完全に乗用車の生産を終えます。その後、パナールはもうひとつの顔である軍用車両専門のメーカーとなります。パナールは1921年から新型装甲車の開発に着手し、1926年完成のM165/175以降は特に装甲車を得意とするメーカーでした。2005年にオーバーランド社にPSAが売却すると同年パナール ジェネラル ディフェンス(Panhard General Defense)と社名を変更しパナールブランドの名前が復活しました。

パナールの独創性はシトロエンの上を行くものだったのがよくわかるのですが、方向性が正しくなかった(時代に合わなかった)のでしょう。乗用車として最後のクルマが流麗な24だったのがせめての救いだったのかも知れません。

と、いうことで以前510さんから冷やかしでリクエストされていた宿題を、駆け足ですがひとつ終えました(笑)
軍用車両は510さんの方が遥かに詳しいはずなので、解説宜しくお願いします(核爆)

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シトロエン最大の失敗
2008-10-05 Sun 21:22
1982年に登場したアウディ・クアトロがその後のラリーに対する概念を大幅に変えてしまったことはご承知だと思われます。一方ランチアはラリー037を投入すると翌83年には一騎打ちの状態となります。しかし84年にプジョー205ターボ16を投入し新たな敵となりました。後輪駆動の037では勝てないと悟ったランチアが投入したのがかのデルタS4であり、この頃になると市販車の面影はどんどん薄くなっていき、パワーもエスカレートするばかりになります。95年頃になると1tそこそこのボディーに600psに迫ろうかというエンジンを載せ、次第にコントロールを失っていくのです。

BX_4TC_EVO.jpg

そんな86年にシトロエンが投入したのがBX 4TC EVOLUTIONです。このマシンは同じPSAの205とほとんどコンポーネントを共用しませんでした。唯一同じだったのはミッションがSMからの流用だったくらいです。エンジンはプジョー505ターボの2141ccエンジンを縦置きに搭載しKKK製K26ターボチャージャーで380psを発生するも、当時のライバルが500psを超えていた時期で戦闘力は知れていたと思われます。また4WDシステムはフルタイムシステムが当たり前だったのにパートタイム方式を採用していたのです。そして極め付けは「ハイドロニューマチック」で戦ったことです。
本来がグループBの中では大振りなボディーであり、そこでエンジンを縦置きにしたことで約300㎜も延長されたボディーとなって、正直、どこまで勝つ気があったのか疑わしいマシンが出来てしまいます。
86年のモンテカルロ・ラリーではクラッシュとサスペンショントラブルでリタイア。第2戦スウェディッシュ・ラリーでは一台はエンジントラブルでリタイアでしたがJ.C.アンドリューが6位で完走。第6戦アクロポリス・ラリーでは3台投入したがいずれもリタイア。ここで第5戦のツール・ド・コルスで崖から転落してトイボネンとセルジオ・クレストの死亡した事故を受けFISAは翌年からグループBを廃止する決定が出されると、シトロエンは早々に撤退してしまいます。
何と3回しか出場する機会がなかったのです。
さてグループBに参戦するためには200台を生産・販売しなければなりませんでした。従ってこの4TCも市販されています。

BX_4TC.jpg

エンジンは200psにデチューンされています。他でもメータなど目に付く変更点がありますが、最大の違いはサスペンション形式がノーマルのフロントがマクファーソンストラット、リアがセミトレーディングからダブルウィッシュボーンに変更されていることでしょう。
外観はコンペディションを彷彿とさせる如何にもなパワーバルジとブリスターフェンダーが装備され、このマシンがタダモノではないことを教えてくれていますが、僕はお世辞にも美しいとは思えません。ノーマルのガンディーニデザインが持つ近未来的なデザインにこのような装備が備わることで、何かしらアニメチックなものを連想させてしまうからです。ランチア デルタのボディーワークが素晴らしいことを考えると、どうもシトロエンはこの辺のアレンジが下手なように思われます。
この4TCは200台販売される事になっていましたが、実際にはそれより大幅に少ない40台ばかりが実際に販売されたに過ぎません。一説には62台という説もありますが、少ないことには変わりありません。売れ残った4TCはシトロエンに引き取られ、スクラップ処理されてしまっています。つまり販売面でも大失敗。
日本には現在、フェイズ1とフェイズ2の2台が存在しています。そのうちの貴重な1台が今月のカーマガジンのシトロエン特集で採り上げられています。興味のある方は書店でお求め下さい。

carmagazine365.jpg

というか調べていたら、このカーマガジンに登場した4TCのオーナーさん が運営するブログを発見してしまいました。

それと比較的ミニチュアの世界では恵まれていないシトロエンですが、何とPROFIL 24というフランスのメーカーから1/24でエンジンまで再現されたレジンキットが発売されています。

4TC_KIT.jpg

ixoからも1/43で発売されていますがディテールがイマイチだったことを思うと決定版かも知れません。ただ値段がね(笑)

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シトロエンのチャレンジ
2008-03-31 Mon 06:58

昨年の10月に発表されたシトロエンのC5。これによって今まで違和感のあったCシリーズのデザインがやっと統一されたような印象があります。XantiaでPSAがカロッツェリアと決別するためのスタディを行ったのではないかというのを社内とベルトーネとのデザイン比較で書きましたが、その後、シトロエンデザインセンターでデザインが行われるようになり、昨年はベルトーネの破産、そして今年になってピニンファリーナの第三者割当増資引受を要請するというように、カロッツェリアにとっては生き残り難い時代になってきています。

C5_01.jpg

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ベルトーネから決別したシトロエンでしたが、クサラやC5のデザインが手放しで褒められるものとは思えず、失望のあまり「今後のシトロエンはどうなるのか」と心配するほどでした。C6が登場した時はやっと安心できたのですがC5のデザインを見て漸くそれが確信できるようになりました。少しBMWのトレンドに近い気がしますが、マッス感やバランスは随分と良くなりましたし、ディテールはドイツ車にはないフランス的なデザインが健在です。C6というフラッグシップのデザインが極めてシトロエンの伝統を重んじたことで、下のクラスであるC5のデザインが高評価になっているとも推測できますが、この現象はAlfa Romeoの159とは好対照だと思えます。
実は待望のC5は、日本国内はおろか本国でもリリースされておらずいつ発売になるかとヤキモキされています。詳細は以下のスペシャルサイトで見ることができます。フランス語に堪能な方は本国のサイトへ。

C5スペシャルサイト本国版
C5スペシャルサイト英語版

さてハイドロ以外のシトロエンの伝統と言えば、メーター廻りだと言う方が多いと思います。シートだとかパッケージングを挙げる方もかなり居るとは思うのですが、少しオールドなシトロエンのファンならばあの“ボビンメーター”を挙げない訳はないと思うのです。今回のC5ではメーターの遊びがかなりあってアナログな“ボビン”とは趣こそ違えども「シトロエン健在なり」を確信できます。ステアリングに関してもオーディオコントロールやクルーズコントロールが組み込まれ実にシトロエンらしいデザインです。

C5_07.jpg


今回の主題はステアリングです。

ご紹介するのはシトロエンの開発した"C5 by Wire"です。

bywire01.jpg

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このステアリングはどちらかというと飛行機の操縦桿というのが相応しい出で立ちで、これで普通にステアリング操作ができるようになっています。このステアリングで操作できる秘密は速度に応じて切れ角が変化できることなのです。大きく3つのパターンを設定し、速度が低く大きくステアリングを切ると自動的に駐車だとコンピュータが判断して前輪の切れ角を増大させるシステムです。スピードが上昇すると切れ角を押さえ、操作スピードが速いと切れ角を的確に増大させてシャープなハンドリングを実現するというかなり凝った作りです。
しかもこの"C5 by Wire"のステアリングにはステアリング操作だけではなく、アクセルやブレーキの主要操作とウインカーやワイパー、ライトコントロールいう副操作機能が全て備わっています。
中央の銀色のプレートが加速パドル。指で押すと加速するという構造です。両方とも加速用で加速中にライトなどの操作を行うためには、どちらの指でも加速パドルに触る為には2つ必要とされたからです。ブレーキはステアリングの裏側にあって人差し指で握るだけです。通常どちらかの指若しくは両指を使って操作し圧力の加減でブレーキの効き具合を調整するシステムです。これは人間にはパニックの時に強く手を握る癖があるので、意外に的を射ているかも知れません。

bywire05.jpg

bywire04.jpg


当初航空宇宙産業によって開発されていた“X-by-Wire” technologyをシトロエンが応用した技術ですが、この技術は自動車の安全技術の向上に必要なものだと考えているようです。

足をペダル操作に使わないので、姿勢が安定しドライバーへの負担を減らし、事故の時には衝撃を軽減させることができる。
“X-by-Wire” technologyは人間工学に基いたもので、操作が直感的にできるので危険回避の動作時に素早く操作できる。
などを挙げて、今後も更に自動車に相応しいオプションを考案していくとしています。
このシステムはヨーロッパ的事情が前提となっている点が気になるのですが、それは「クルーズコントロール」です。長距離移動の多い彼等の習慣に合わせてクルーズコントロールを積極的に利用する事が前提の使い易さなのですが、日本の様な渋滞を前提とすると使い勝手が良いとは言えない気がします。それはセンソドライブなどのセミATにもハッキリ表れているように思えるのです。
それと長く染み付いた習慣から自然に移行できるかは微妙です。

しかしこういう意味のわからないアソビを実現してしまうトコロを見ると、まだまだシトロエン魂の火は消えてないと思うのです。ボビンメーターだってモデルで一貫して採用された事がないのですから、これはもしかすると“ファンサービス”なのではないでしょうか(核爆)
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