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盆と正月が一度に来たみたい
2008-10-20 Mon 07:41
どうも休みに出掛けた後の回復が遅れるようになったトコロをみると、順調に老化が進んでいるようです。コスモス狩り~熊本で実家に一泊し翌日は畑で芋掘りして帰宅、夜は友人のフラメンコの公演が市内であってそれに出掛けてくるという我家にしてはタイトなスケジュールでした。

さて僕等のようにクルマを趣味とする人間ならAlfa Romeoの蛇に限らず、骨の髄までやられたい、と思うのはアバルトの“蠍の毒”もそうだしシトロエンの“ヘヘ病”もそうかも知れません。その内の一つでありかなり厄介な病と思えるのが“セブン症候群”ではないかと思うのです。かく言う僕もかつてかなり真剣にスーパーセブンが欲しい時期があり、それはいわゆる波のように高くなったり低くなったりしていて「欲しい」衝動は常に海原のように満ちているのです。
どうもヨクヨク考えてみると僕は“セブン”と名の付くモノが好きなようです。以前、記事でも書きましたがRX-7はかなり具体的に買うトコロまでハナシが進みましたし、ウルトラセブンに出てくるウルトラ警備隊のメカはポインターを含めかなりツボなのです(笑)
お察しの通り、今回の目撃は“スーパーセブン”です。

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僕達は例年のコスモス狩りに出掛けたのですが、思い出の場所のあまりの変わり様に意気消沈してしまいました。気を取り直して別の場所に移動する事にしたのでした。記憶だけを頼りに目指す「小国コスモス村」は三愛高原から黒川温泉を経て小国へ出るのが最短コースなのですが、その三愛高原には「三愛レストハウス」というドライブインがあります。やまなみハイウェイの中間辺りに位置するこのレストハウスは昔から休憩場所や給油という重要な場所で、ツーリングでは必ず寄るとも言われるトコロなのです。
僕達も子供がいるのでココでトイレ休憩と思っていたのですが、交差点を曲がると駐車場には「明らかに周りのクルマから浮いた」マシン達が見えたのです。僕達が見たのは数台のFerrariでした。
来ていたのはF430を始めとするモダンフェラーリでしたが、残念なことに僕達が到着したと同じくして出発してしまいました。

ところが奥の駐車場にはスーパーセブンが居たのです。それも1台や2台などではなく大量に(笑)
もちろんスーパーセブンを見るのは初めてではありませんし、ある意味この手のクルマではメジャーなクルマですから何かしらの機会で見掛けてはいます。しかしイベントでコレだけの数を一気に見ることは初めてで、ケイターハムやらロータスに混じってバーキンが居たりとんでもないマシンが混ざっていたりで、もう冷静さなんかどこかへ吹っ飛んでいました(苦笑)

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もう無我夢中でシャッターを切っている僕はあの「小学生時代」に戻っていたようです。

スーパーセブンに惹かれる理由は人それぞれだと思いますが、多くの人は「速い事」を上げるに違いありません。実際にはトップスピードはそれほどではありませんが、加速力はフォーミュラーカー並みで、コーナリングスピードは下手な国産スポーツでも敵わないほどです。全く違うのはそのフィーリングだと思います。自動車が登場して快適に速くを目指して来たのに対し、スーパーセブンはどこかでその考え方を辞め、全く違う方向へ進化したクルマだと思います。

7シリーズはその前身Mk-6に端を発するモデルです。
アンソニー・コーリン・ブルース・チャプマン(Anthony Colin Bruce Chapman)は1928年5月19日にイギリスのサリー州リッチモンドに生まれました。ひとりっ子だったコトもあり、大切に育てられ、ユニヴァーシティー・ロンドン・カレッジに入学し、構造力学を学ぶ学生になりました。当時、大学までの通学にはバイクを使っていましたが、新入生歓迎のダンスパーティから帰宅途中にタクシーと衝突、大怪我を負ってしまいます。その年のX‘masに両親がプレゼントしたクルマが自動車との初めての出会いとなります。すっかりクルマの魅力に取り憑かれたチャプマンは、クルマの世界にどんどん嵌って行きますが、やはりクルマの維持は当時もそれなりに嵩んだ様で、資金を捻出するために始めたのが“中古車の販売”でした。当時のイギリスではまだ自動車の生産が十分とはいえない時代で、ガソリンにも統制が掛かっていました。それで中古車には人気があり当初はそこそこの成績だったようです。この時期にチャプマンは運転技術だけでなく、セールスやビジネスの基礎知識を身に着けています。
トコロが新車の生産も伸び、ガソリン統制が終了した47年10月に中古車の価格が大暴落してしまいます。中古車の販売に見切りを付けたチャプマンは在庫車の一掃整理をするために大放出するのです。概ね売れたのですが売上げは普段の半分にも満たないほど。しかも、どうしても売れないクルマが残ってしまいました、それは当時でも17年落ちの1928年型オースチン・セブン(登録ナンバーPK3493)でした。古臭いスタイルと10HPのエンジンで売れる可能性などない大古車です。この売れ残ったセブンベースの製作を思い付いたトコロからロータスの歴史は始まったと言って良いと思います。
彼のパートナーだったコーリン・デア、ディレック・ウェットン、ヘイゼル・ウリィアムズの4人で勝手にウリィアムズの家のガレージを使ってほとんどシャシーを作り変えたマシンが完成し、別の車として登録ナンバー(OX9292)を所得し、これが“ロータス”の名を冠した初の自動車となります。彼等はこのクルマを“8”と呼びました。推測ですがオースチン・セブンベースだったので洒落で“8”としたのではないかと思われます。48年にはマイナーレースに参戦し、3戦のみのエントリーとはいえその速さに注目を浴びる事になります。何故、チャプマンが“LOTUS”の名を冠したか語ってはいないのですが、一説に寄ればガールフレンドのヘイゼル・ウリィアムズにつけた“あだ名”が”LOTUS”だたからだと言われています。ロータス(LOTUS)は英語で『蓮』の意味です。ギリシア神話では『ΛΩΤΟΣ(ロートス)』と言い、その実を食べると浮世の苦しみ全てから解放され、夢が叶うとされているのですが、彼女がその「蓮の実」だったのでしょうか。
チャプマン自身はセブンのエンジンでレースを戦うのは役不足と考えていたことから、より強力なエンジンを搭載したモデルを構想します。これがMk-2です。ちょうど時同じくしてカレッジを卒業したチャプマンは工学士を得、徴兵制度のためにパイロットとしてイギリス空軍へ。休暇になるとMk-2の製作に没頭する生活を送ります。これも推測に過ぎませんが、この空軍時代と大学時代の経験がその後のロータスの礎を築いたのではないかと考えています。パワーがない市販エンジンでレーシングマシンを相手にするには徹底的な軽量化を抜きには考えられなかったのですし、航空力学という観点からグランドエフェクトカーが発想されても不思議ではないからです。
49年にはMk-2は完成しましたが、フォード8のエンジンに換わって更にパワーのある10のエンジンを搭載し50年からレースに参戦します。Mk-2は高い戦闘力を発揮し、チャプマンとヘイゼルの手で総合優勝4回、クラス優勝4回と好成績を挙げます。特に1950年6月3日にシルバーストーンで開催されたエイトクラブ主催のレースでは、GPレーサーのブガッティType37と競り合い優勝してしまいます。これによってロータスは注目されるようになります。
チャプマンはこの時マイケル・アレンとナイジェル・アレンの兄弟に出会います。チャプマンはより本格的なレーシングカーの開発、販売に着手し、彼らが所有していた郊外のガレージでMk-3とMk-4を完成させます。

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当時のイギリスは自動車物品税が高額でした。反面自分で組み立てるキットカーの税率が低かったことから、Mk-3、やMk-4はキットカーとしても販売されました。イギリスでバックヤードビルダーが多く誕生する背景にはこのような理由がありました。エンジンを好みで他のエンジンにすることもできたことから人気を博し、特にMk-3は当時のイギリスで人気のあったフォーミュラ750カテゴリで無類の強さを発揮しロータスの名は着実に高まって行きました。本格的なレーシングカー製造販売を目指していたチャプマンはMk-3の成功により、いよいよ市販モデルの構想に着手します。
チャプマンはマイケル・アレンと共に1952年1月1日、ロンドンのホーンジー、トテナム通りにロータスエンジニアリングを設立します。正式な会社組織としてスタートしたロータスですが、このガレージはチャプマンの父親が経営していたホテルの馬小屋跡を使ったものでした。自動車の登場で馬を使うことがなくなりその小屋が残っていたのですが、クルマを2台も入れれば身動きできない狭さでした。しかしロータスの評判は上々で注文が常に舞い込み、工場はフル稼働でした。
そしてここで生まれたのがあのMk-6です。

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Mk-6はそれまでのベース車両の改造シャシーはなく、専用設計されたシャシーを持つ初のモデルです。プロトタイプは順調に完成し、テストを兼ねて1952年7月からレースにエントリーされますが、その年の8月マイケル・アレンが公道で運転中にクラッシュ、これがきっかけとなりアレン兄弟はロータスを離れることになります。
創業メンバの半数を失い、スタート間もないロータスは危機を迎えますが、チャプマンと、その婚約者であるヘイゼル・ウイリアムズを取締役として、そしてエンジニアとして新たにマイク・コスティンとフランク・コスティンの兄弟を迎え、1954年1月1日株式会社として再出発します。奇妙な事にここでも兄弟がやってきています。フランク・コスティンについてはご存知の方も多いと思いますが、デハヴィランドという航空機メーカーの出身です。デハヴィランド在籍当時からレーシングカーの設計を行っていたらしく、風洞実験をデハヴィランドの設備を使って行っていたのは当時としてはかなり先進的だったと思われます。フランクは名作ロータス11やマーチ711の産みの親ですが、ロータスの後ジェム・マーシュと設立したマーコスが初めて発売したスポーツカーは、何と木製モノコックだったそうです。そう、デハヴィランドと言えば木製モノコックの高速双発機「モスキート」の製造元です。コスティンが木製モノコックを選んだのには、デハヴィランドを初めとするイギリス航空産業に於ける木製モノコック構造の技術的裏打ちがあったためとも言えるでしょう。
弟のマイクは後のコスワースの設立者です。
軽量なスペースフレームを持つMk-6は、その高性能とは裏腹に同レベルのライバル車と比べて安価でありプライベートレーサー達に好評をもって受け入れられました。実質的にキットカーの販売で様々なオプションを用意したことも顧客の購入意識に大きく寄与したと思います。何しろMk-6は量産車とはいえ純然たるレーシングカーだったからです。Mk-6は1955年まで製造され、その間100台から110台が出荷されたが、その間ロータスの工場はほぼフル生産であり、経済的にもかなりゆとりができてきました。
そしてMk-6の流れを汲むセブンが登場するのは57年のロンドンモーターショーです。Mk-6譲りのチューブラーフレームにアルミのボディーを貼り付けるセミモノコック構造のクラブマンで、FRPのセミモノコック構造を採用したエリートと同時に発表されます。
スタビライザーとアッパーアームを兼用したダブルウィッシュボーンによるフロントサスペンションと、A形のアームでアクスル(ホーシング)の前後・左右・回転の三方向の力を支える、センターAアーム式のリアリジッドサスペンションが特徴的で、これにより部品点数の削減によるコストダウンと軽量化を兼ねていました。
このセブンからはそれまでの開発コードMk~という名前からMkを省略するようになり、またエリートのようにキャラクターネームが付けられるようになります。フォード製100Eや116Eなどを搭載するベーシックモデルは単に「ロータスセブン」と呼ばれ、更にチューンアップされたコベントリー・クライマックスFWAを積んだ高性能バージョンを「スーパーセブン」と呼び分けていました。 ロータスセブンはシリーズ1~シリーズ4までのモデルチェンジが行われ、いくつかのバリエーションの完成品、またはキットフォームの形態で販売されました。
セブンシリーズもかなりの成功を収めたモデルとなりましたが、イギリスのキットカー優遇制度がなくなるとその販売数に翳りが訪れます。
またチャプマンはセブンを活動資金源として捉えていたのが正直なところで、エリートのように生産コストが嵩むクルマを生産するに比べれば比較的安価に生産できることや、F1への進出によってレース資金が必要だったこともその原因でした。シリーズ2までは順調に売れていたセブンも、66年にはセブンの生産は一時的にストップし、67年には正式に生産終了が発表されています。この年にシリーズ3は発表されるのですが、それはシリーズ2の生産を求めるユーザーの声によるものでした。シリーズ4では、当時、最新のレーシングカー技術を取り入れ、スペースフレーム+FRPボディーが使われ更なる軽量化が試みられています。ロータス社内のモデルナンバーも、当初の7から60に変更されています。ところがシリーズ3以前のクラシカルなセブン像を求めていたユーザーにはシリーズ4は受け入れられず、それに加えてアメリカの5マイル規制によって保安基準が満たせないこともロータスを落胆させるに十分な原因となります。ロータスは国内の需要だけでは不十分と考えていただけにアメリカへの輸出が不可能になったことでセブンの生産を終了することになります。
そのアメリカ市場に対するモデルとして登場したのが以前、記事にも書いたヨーロッパでした。
ロータス社はセブンの生産を終了した際、よりステップアップする為の資金源として、ロータスの代理店であったケイターハム社が1973年にセブンシリーズ4の製造販売権と、在庫部品、製造治具などの生産設備を売却する契約をします。実はケイターハムの経営者グラハム・ニアンはセブンに惚れ込んだ一人で、61年にケイターハムの権利を買い取ってまでセブンを売ろうと思った男です。66年の生産ストップの時にはチャプマンに直談判し再生産と独占販売権の約束まで取り付けています。
ケイターハムはセブンの製造権を獲得するとセブン・カーズを設立し、ロータスのエンブレムの代わりにセブンのバッジをつけた「スーパーセブン」を発売します。しかし当時のケイターハムではFRPボディーを生産するには十分な設備がなく高度なスペースフレームも作るノウハウがありませんでした。シリーズ4のボディー60台程度を生産した時点で生産を打ち切り、比較的製造が容易なアルミボディーのシリーズ3に近いモデルへ移行しています。コレ、実のところ契約上の問題はなかったのか疑問なのですが、特に訴えられたということもなかったようです。またこの点について以下に記載している「バーキン」設立で「ケイターハムとはシリーズ4の製造・販売権利を譲渡したが、シリーズ3以前のモデルは設計図も販売権も譲渡していなかったので商標権以外は問題がなかった」とされていることです。
82年に、チャプマンが心臓発作で死去すると、ロータス社を継いだ妻のヘイゼル・チャプマンは人件費の安い南アフリカに支社を設立し、現地へ移民したイギリス貴族バーキン卿の起こした「バーキン」というレプリカ専門のメーカーに、製作が容易なシリーズ3セブンの再生産を任せる計画を立てます。(バーキン卿の祖父はルマン24時間レースで2度の優勝歴がある車好きである) ヘイゼル・チャプマン、当時のロータスF1ドライバーを招いての発表会のために2台のバーキン社製のロータス セブン シリーズ3が制作されたと言われています。
しかし、アパルトヘイトの問題でロータスの計画そのものが頓挫してしまうと、以後、その時の契約を盾に、バーキンはロータスと関わりなくセブンの生産を続ける事となります。後にケイターハムとの裁判にて、前記の正当性から当然シリーズ3車自体の製造権が認められますが、(スーパー)セブンの名前は、シリーズ4の販売権を正式に購入したケイターハムが使用する事になり、痛み分けで終了しました。この裁判の結果、バーキンのセブンにはホーンボタンの上にステッカーを貼って7の文字を隠しているものがあります。この時やはりセブンのレプリカを生産していたウエストフィールドとも裁判をしていますが、ロータス社と関わりが無く、正当性に欠けるウエストフィールドは敗訴し、ボディデザインを若干変更し、シリーズ4の様なFRPで制作する事となります。
セブンを模したモデルはそれこそ数多く存在し本国イギリスでは、ウエストフィールドなど、低価格で購入出来るセブンに人気が集まり、ケイターハムよりも多い販売台数になった事が、このような裁判に繋がったとされていますが、実際はどうなのでしょう。というのも、ケイターハムがなければ現在までこれほどのセブンが生き残る時代はなかったと思われるからです。またケイターハムこそがロータスから正当にセブンの製造・販売権利を受けたという自負もあると推測します。
チャプマン自身はセブンに対して熱心というわけではなかったようですし、ヨーロッパ以降のロータスが生産したクルマへ早く移行したかったのが本音だったと思われます。事実、ヨーロッパの発表やエランの成功で度々セブンの生産を中止する機会を窺っていますし、正式な生産終了もアナウンスされているのです。チャプマンが熱心でなかったが故に、資金的に苦しかったであろうグラハム・ニアンがセブンの製造・販売権利を購入できたのも原因だろうと思うのです。つまり二束三文に近かったのではないかと。
今も昔もロータスから正式に製造を受け継いだのはケイターハムですし、その後は独自に改良され現在はケイターハムのスーパーセブンと呼ぶ方が相応しいと思います。恐らくロータスからの脱却は85年のリアサスペンションを変更した時点で、既にロータスセブンではなくなったのではないでしょうか。
また模倣して生産したセブンを「ニア・セブン」と呼ぶのですが、これをケイターハムに当てはめるのは少しおかしいと思います。
今回はロータスの創成期に纏わる重要なクルマとしてセブンを取り上げたのですが、何しろ創成期のロータスを記事にする絶好のチャンスだったものですから、結構資料を引っ張り出して纏めました。本によっては事実関係が異なっているものですから、詳細ではまだ間違っていることもあるかも知れません。あのウィキペディアの記述さえ受け取り方の問題と思われる記述もあり微妙です。
細部についてはまだ補足や再リサーチが必要と思う箇所もありますので、今後加筆訂正はありそうです。
それにしてもサラっと終わらせようと思ったのに、調べだすとキリがなくなってしまうんですよね(苦笑)
お陰で「Alfa Romeo Collection2」の記事が全然できてないですが何か(笑)

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空飛ぶレンガ
2008-08-20 Wed 07:31

このシリーズも「もうネタが尽きるか」と思う頃に面白いクルマに出逢ってしまうのだから不思議なものです。

今回の目撃はボルボ 850 T-5R

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このクルマの事を知らなければチョット弄った850のエステート、くらいにしか思われないのですが「知る人ぞ知る」クルマです。
850シリーズは240シリーズの後継車として93年に登場するのですが、これはボルボにとって初のFF車でした。特にエンジンは960用の6気筒エンジンを1気筒減らした5気筒エンジンで、このエンジンを横置きに積んでいます。5気筒エンジンを横置きレイアウトで搭載するのはボルボだけだったと思います。
この850はプラットフォームから新設計になったモデルで、それまでの「丈夫なだけ」のイメージを一新させる運動性能の高いモデルでした。
ボルボは新しいスポーティーな850を印象付けるためBTCCに参戦します。

しかもエステートで!

理由は「空力的にセダンより有利」だったからだそうですが、その後セダンを投入していますから「空力」より「軽量」の方が結果が出たんでしょうね(苦笑)

そして95年に登場するのがこのT-5Rです。
ターボモデルのチューニングを変更して2318ccの5気筒20バルブエンジンから240PSを発生させるスポーツモデルでセダンと併せて世界限定5000台が生産。そのうち日本へはエステートが500台、セダンが150台輸入されたといいます。しかも翌年には850Rというモデルが登場しているので「R」を冠するT-5はこの5000台のみなのです。
一部に並行輸入されたT-5Rもあるらしいのですが、数は極僅かでしょう。
つまり今回の目撃は日本国内における

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セダンだったらもっと凄い目撃だったですね。
この当時、ボルボのスポーツイメージとなった淡いクリームイエローのボディーと5スポークのタイタンの組み合わせはこのモデルの「王道」 まぁ、2色しか用意されてなかったんですがね(笑)
で、これに影響されたのがレガシーなのは間違いないでしょう(核爆)
因みに日本へ正式輸入されたT-5Rは4ATモデルでしたが、本国仕様は5速MTが用意されていました。チューニングも異なり、これは850Rでも同様でした。

ところでこのT-5Rは95年当時に実物を見ています。全くの偶然でしたが別府に買い物へ出掛けた時に、こちらのディーラーが出張展示会をしていたんですね。
最初は「あぁ、ボルボか」くらいに思っていたのですがチラっと例の「クリームイエロー」が見えたものですから「あっ、T-5Rだー」と引き込まれるように見入っていました(核爆)
今にして思えばそんな限定車を展示しなくても良さそうなモノですが、走りのイメージを増強するには必要だったのかも知れません。

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マゼラーティの憂鬱
2008-07-28 Mon 20:16
マゼラーティのミニチュアカーコレクションで沸いた周辺の状況も一段落したように思えます。今回のマゼラーティコレクション参戦には「ネタ」という以外に、勿論、僕自身がこのメーカーに思い入れがあることは紛れもないことです。どこかAlfa Romeoと同じく商売が下手(笑)というか、何かしら共通する空気があります。
実はこの記事、一度書きかけたのですが気に入らず大幅に書き直しました(苦笑)
今回の目撃は先代の「マゼラーティ クアトロポルテ」です。

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現行型はケン奥山こと奥山清行氏がデザインしたものでこれも嫌いではないのですが、先代のクアトロポルテはマルチェロ・ガンディーニのデザイン。やはり特徴的なリアフェンダーの形状がカウンタックを彷彿とさせてしまいます(笑)

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このクアトロポルテはおそらく中期のモデルです。中期の特徴はAlfa Romeo GTVから流用されたドアミラーが最大の特徴かと思われます。
クアトロポルテは「4つの門」を意味しており、文字通り4ドアのサルーンです。マゼラーティの大型高級GTサルーンとして1963年に初代が登場しています。

一時的に欠番となっていたクアトロポルテですが1994年に再登場した4代目は、当時の主力車種・ビトゥルボのシャシーを流用したため全長が4550㎜とシリーズで最も小さいクアトロポルテとなりました。クアトロポルテは本来EからFセグメントを埋めるモデルですから、このサイズダウンジングは異例とも思えます。経営的に行き詰っており、専用のシャシーを開発する余力がなかった、というのが真相なのでしょうが、ギブリと共通のV6・4OHC24バルブエンジンは2800ccで280ps、イタリア国内向け2000ccでは306psを誇り、1.6tを切る軽いボディーのお陰で最高速度は260km/h(2800cc)にマーク。
97年には、マセラティ・シャマルと共通のV8・3200ccをIHI製ツインターボで武装するモデルが追加され出力は326ps、最高速度はゲトラグ製6速マニュアルで275km/h、4速オートマチックでも265km/hにまで上昇しました。
1998年に何度目かの(笑)倒産の危機でFIATの傘下に収まります。同じグループのフェラーリ傘下というポジションでフェラーリ技術が導入され、「クアトロポルテ・エヴォルツイオーネ」へとマイナーチェンジを受け、V8モデルは最高出力336ps、最大トルクは45.9kg‐mに達します。
新たにマセラーティの経営者となったルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロの意向で、ダッシュボード中央の、ビトゥルボ以来マセラティのトレードマークであったラ・サール製のアーモンド型の金時計は外されココにはトライデントのエンブレムが入るようになっています。
マゼラーティの豪華な内装はこの4代目でもしかりで、エルムウッド、本皮とアルカンタラをふんだんに使った豪華な内装は、この4代目クアトロポルテで一つの頂点に達したのではないかと個人的に思います。

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僕が何故このクアトロポルテに梃入れするのか…多分シトロエンとの蜜月があったからだと思います。
当時マゼラーティは経営困難のため親会社を探していました。一方シトロエンは独自のハイドロシステムが一応の成果を収め、FWDのハイドロシステムのまま200km/hオーバーのGTカーを生産しようと考えていました。しかしシトロエンにはそこまで出力のあるエンジンは持ち合わせておらず、そこで目を付けたのがマゼラーティだったのです。この当時は民族メーカーという空気の強かった欧州ですが、民族を越えた提携というのはこの時が最初だったのではないでしょうか。
1968年にシトロエンはマゼラーティを買収し、マゼラーティはシトロエンの傘下となります。この時誕生したのがあの「SM」です。エンジンはマゼラーティ製2700ccV6エンジンで170psを発生。1973年には3000ccに排気量を拡大して190psに出力を高め、200km/hオーバーを達成します。

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一方、マゼラーティは既存の車種を撤廃して、シトロエンの空力技術とハイドロシステムを応用したスポーツカーの開発に着手します。その最初がボーラで、ブレーキシステムにハイドロシステムが使用されました。その改良版がメラクでエンジンはチューンを変更したSM用が使われ、初期のものはSMのメーターパネルとワンスポークのステアリングが流用されています。リトラクタブルライトのポップアップにも油圧が利用され、カムシンに至ってはパワーステアリング機構やシートのリクライニングまでハイドロシステムが採用されています。
1974年になるとクアトロポルテの中身をまんまSMにした2代目(Tipo130)を発表。サスペンションシステムまで完全にハイドロシステムをSMから移植したのです。ところがこの時期、ハイドロシステムの不具合でかなり悩まされたようで、配管の継目からのオイル漏れと高圧ポンプのパワーロスなどがネックとなっていました。信頼性の低さは当時の水準と比較してもかなり低かったようです。一方、シトロエンもマゼラーティ製エンジンの信頼性に悩まされていました。結局、このハイドロ「クアトロポルテ」は受注生産で4年の間に僅か13台(5台の説もあり)が生産されるのみとなってしまいます。マゼラーティの歴史の中でも最初で最後のFWDになることでしょう。

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お互いアキレス腱を抱えた状態ではあり、続いて第1次オイルショックの時代に入り、プジョーはシトロエンの傘下であるマゼラーティをお荷物と考え、シトロエンとマゼラーティの契約は白紙撤回となったのです。マゼラーティは親会社なしの窮地に追い込まれ、マゼラーティの歴史はここで終わってしまうはずでした。しかしマゼラーティという会社の強運はこれで終わらなかったのです。この窮地を救ったのが、イタリアを代表するスポーツカーメーカーのボス、デ・トマソでした。1975年、マゼラーティはデ・トマソのグループ傘下となり、あの世界的に売れたビトルボが誕生します。

さて4代目のクアトロポルテ。
最大のネックはハイチューンエンジンの熱量に対してエンジンルームが小さい事が最大のネックです。そのためにマイナートラブルが絶えないクルマとして有名なのですが、それを維持するには相当の覚悟が必要でしょう。とても僕などでは財力が続かないと思います。
ですから手は出すつもりは毛頭ないのですが、あえて提案させてもらうなら、極力、配管類は日本製かアールズのステンメッシュ配管に変更し、クーリング系統をARCなどの定評あるチューンド品に交換してしまう事です。幸いに日本はターボチューンのノウハウが多い国ですから、このようなチューニング技術のフィードバックで信頼性を上げるのも手ではないでしょうか。
もっともこの方法もかなりの金額を要しますが(笑)
気になるクルマだけに地獄へ向かうのか向かわないのか、まさに憂鬱なのです。


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