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長イイ話
2008-10-27 Mon 21:33
前回スーパーセブンの記事でセブンと一緒に並んで写っていた小さな水色のクルマをご存知でしょうか?

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クルマ好きは勿論即答だと思います。
そうジネッタです。イギリスには数多くのバックヤードビルダーが存在しており、ロータスもかつてはそのひとつでした。ジネッタもそんなメーカーで、現在もバックヤードビルダーの要素を色濃く残したメーカーです。

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ジネッタの歴史は、1957年にイギリスのサーフォーク州で建築業を営んでいたクルマ好きのウォークレット四兄弟、ダグラス、トレバー、ボブ、アイバーによって、中古のウーズレイ・ホーネットを改造したG1というレーサーが作られたことによって始まります。このレーサーは彼等が地元のスネッタートン・サーキットをはじめ当事各地で行われていた草レースに出場するためのレーサーでした。しかし試運転の際、家を出たところでクラッシュしてスクラップになってしまいます。
しかしこの事故が彼等に火をつけたのか、すぐに次のクルマの製作に取り掛かり完成させたG2は、25mm鋼管スペースフレームにフォードの1.1リッターエンジンを載せ、高い評価を得ることになります。
本来は彼等がレースに出るために製作されたレーサーでしたが、近所のクルマ好き達に製作の注文を受けるのです。ウォークレット兄弟は半完成品のキットカーとしてG2を156ポンドの値段で販売しました。当事はイギリスでは自動車の物品税が50%も掛けられていましたが、キットカーはこの消費税が課税されなかったことから、キットカーは「どうしてもクルマを持ちたい、運転したい」と考えるクルマ好きの庶民に人気が高かったのです。このレーサーの成功がバックヤードビルダーとしての道を決定付け、彼等が自動車メーカーとして進む決心をさせます。つまり「ジネッタカーズ社」の誕生です。
1960年にはG2の改良型でFRP製のボディーを採用したG3が登場、翌年の1961年にはジネッタの最大のヒット作であるジネッタG4がロンドン・レーシングカーショーでデビューします。
G4はラウンドチューブのスペースフレームにアイバーがデザインしたFRPのボディーを被せた小さなスポーツカー、デビューと同時にサーキットにも姿を現し、話題を集めます。サスペンションはフロントが上下Aアームによるダブルウイッシュポーン+コイル。リヤはフォード・アングリアから流用したライブアクスルをトレーリングアームとAブラケットで固定+コイルというレイアウトで、重量は完成車で419Kgでした。ボディサイズは3350×1422×685(フロントウインドまで含めると923mm)ホイールベース2030mm、トレッドは前後共に1168mm。かなり小さいですね。幅だけは広いですがまぁ昔の軽四並みの大きさで異常に低い車体を想像すればいいと思います。G4には当初クライマックス750ccが搭載される予定でしたがこのエンジンが多くのバックオーダーをかかえて入手が困難な為、しかたなくフォード・アングリアの105E・977cc・OHVエンジンが搭載されます。完成車は697ポンド、キットで499ポンドという価格で販売され、16ポンドのオプション料金でフォード109E・1340ccエンジンも選べました。
時を同じくしてウォークレット兄弟はそれまでの建築業を完全に廃業し、エセックスに工場を設立しています。恐らく、このG4が成功すると確信していたのでしょう。

さて当事のキットカーってどんな内容だったのでしょうか。G4では以下のような内容でオーナーの元に届けられていたようです。

1エンジンとスプリング、ショックまでが組まれた完成シャシー
2インパネとメーター類
3スイッチ類、シート
4オースチン・スプライトから流用したフロントガラス
5ホイール、タイヤ5個
6ボディパネル

何となく「ラジコン」を連想しました。この内容ならやる気と場所さえあれば作れそうです。クルマも小さいのでさほど場所は取らなかったでしょう。「小さく軽い」のはキットカーでは個人が趣味で作る裏庭サイズとして必須だったと思えますね。
2年後の1963年、G4は多くの部分に改良を受けシリーズ2へと発展します。
フレームはチューブラーパイプからスクウェアパイプで構成されるようになり、エンジンペイのサイドシルが下げられフロントサスペンションもウイッシユポーンのロアアームのピポット位置を16mmずつ外側に出しスプリングのストロークを増しています。フロントディスクブレーキの採用もこの時からです。
最も変更を受けたのはボディーでリヤのテールフィンを廃止し、いわゆるスラブタイプと呼ばれる、絞り込んだリヤスタイルとなりトランクルームが拡大されます(全長は3547mmに伸びる)多分、日本で一番有名なボディーです。
そして、合わせガラスのフロントウインドとパースペックスと呼ばれる樹脂製のサイド・リヤウインドを持つ脱着可能なハードトップもオプションで用意されました。因みにG4にはドアノブがありません。オープンモデルは問題ないのですが、ハードトップではサイドのウインドウに開けられた穴から腕を突っ込み手探りで内側のリリースハンドルを探るワケです。知らない人はどうやってドアを開けるかすらわからない(笑)
まだエンジンは基本的に997ccのフォード105Eでした。というのも、当時の国際レース規定で市販車部門は同一エンジンを登載したクルマが100台以上作られていることと定められていたからです。そして、9月にようやくG4は100台以上の生産によるホモロゲーションが認められました。その後、エンジンのラインナップも増やされフォード113E/1198cc、116E/1498ccエンジンも選択できるようになるのです。ちなみに116Eを積んだモデルは、当初G5と名付けられ発売されましたが、市場ではG4のハイパワー版と受けとめられ、G5の名前が全く定着せず結局メーカー自らG4ー1500とモデル名を変えた経緯があります。まぁ東京ドームの“ビッグエッグ”も定着しませんでしたしね(笑)
因みに大分のスタジアムは“ビッグアイ”で定着しています。九石ドームの方がちょっと違和感ありますね。ここで書くのは初めてだと思うのですがサッカーファンです。
さて、更に本人の希望に応じてコルチナの112Eやロータスツインカムも選択できるようになりました。

そして64年に登場した、G4シリーズ2をベースにリヤのサスペンションをフロントと同じダブルウイシュボーンに変え、4輪独立とし4輪ディスクプレーキを採用したG4Rというレーシングモデルがあります。今回見掛けたG4はこのG4Rです。

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当時、草レースに参加していたドライバー達から同じ105Eを載むロータスセプンよりもポテンシャルが高いと評判でした。
G4・G4Rはこの後、イギリス国内レースで多くの戦債を残しています。
特に64年はそのピークと言え、ワークスドライバーのクリス・ミークは自分で組み立てたG4にコスワースのカムシャフトを組み込んだフォード製1650ccのOHVエンジンを搭載しlシーズンに8回の優勝・6回の2位を獲得するなどの戦績を収めます。更にG1のころからホームグラウンドであったスネッタートン・サーキットでは2000cc・180馬力のポルシェ904が樹立したコースレコードもあっさりと塗り替えてしまっています。
レースでの戦績はすぐに人々の話題となり、市販車も順調に販売を伸ばします。当時のイギリスをはじめヨーロッパではレースの戦績が市販車の販売に大きく影響していました。それはワリと最近までの傾向のようです。例えばAlfa Romeo155も最初は全く売れませんでしたが、DTMやBTCCで活躍をはじめた途端売れるようになっています。G4も最終的に500台以上の生産が記録されています。この成功によりジネッタカーズ社は経営安定の基盤を築くことができました。
G4はエンジンやシャシーを改良しながら様々なバリエーションが発売されています。1964年にはG4Rが登場します。4輪独立サスペンション、4輪ディスクブレーキが採用され、ロータスツインカムエンジンが搭載されます。


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1966年、G4に代わるレーサーとしてG12を市場に送りだしました。
G12は純粋にサーキットレースでの使用を目的として開発され、G4と共通なのはフロントスタイルと鋼管フレームにFRPボディーを被せている事くらいで中身はまったくの別物。ミッドシップ・レイアウトを採用したボディサイズは3500×1550mm×1050mmとG4にくらべ若干大きくなっています。

サスペンションはフロントがトライアンフスピットファイアから流用したダブルウイッシユポーン/コイルにスタビライザー。リヤは長いダブルラジアスアームで位置決めされた逆A型ロアウイッシュボーンとトランスバーリンク/コイルにアジャスタブルスタビライザーを採用した独立懸架を採用。ブレーキもスピットファイアから流用したガーリング製4輪ディスクが奢られます。流用とはいえすピットファイアは車体重量が800kgに対してG12は560kgで240kgも軽いのですから十分な制動力だったでしょう。ドライバーの背後には完全にミッドシップで縦置きされたエンジンは相変わらずG4と同じ105E(39PS/5000rpm)が標準でしたが、実際のレースではG12はスペシャルGTクラス/1150cc以下にエントリーされるのでコスワースSCAというフォード105Eをベースに5ベアリング&SOHC化したフォーミュラー2用エンジン(115PS/8750rpm)を搭載するのがほとんどだったといいます。
ミッションはヒューランドMk-4の5速にLSDの組み合わせ、67年からは1498ccのロータスツインカムをチューンした1594ccのコスワースMk-8が搭載されます。
G12は9月のシルバーストーンのデビュー戦でワークスドライバーのウイリー・グリーンによってラップレコードを記録。続いてホームグランドのスネッタートンではクラス優勝を果たします。また翌年にはブランズハッチで7リッターのシェルビー・コブラ、4・7リッターフォードGT40という強敵を打ち破るなど数々の輝かしい戦績を収め、以降、ロータスエラン・TVRといった上級クラスのクルマを相手に活躍し1150cc以下クラスでは無敵を誇りました。レースに出場し勝つ事を命題とされたG12はキットカーではなくコンプリートカーだけが販売され、その価格は1200ポンドでした。オリジナルのG12は50台弱の生産が記録されています。しかし、純粋にサーキットを走るために生を受けたG12は公道を走るにはあまりにスパルタン過ぎていました。特に複雑なシャシーは手間とコストが嵩み生産性を大きく損なっていました。実のところ、ロータスもセブンシリーズで同じジレンマに陥っていました。それがセブンの販売停止という事態に繋がったのですが、ライバルであるジネッタも同様だったとは何とも奇遇な現象です。
こういった反省から、企業としてもっと生産性の高いスポーツカーを作るべきだ、として登場したのがG15です。生産台数は800台を数え、後にも先にもこれを超えるヒット作は生まれませんでした。

G4は67年によりラグジュアリーに振ったモデルを登場させますが、市場からの反応はイマイチで69年に生産を終了します。
68年にはG12の発展型であるG16が登場したことで実質的にG12の歴史は終わることになります。
1990年に(株)ジーエフティよりG4、G12の再生産を依頼されることになり、トレバー、アイバーそしてトレバーの長男であるマークによりDARE(Design and Research Engineering)社が設立され、2年余の歳月をかけ、オリジナルの作り手によってG4、G12が復活となります。

どうだったでしょうか、今回のジネッタ。特に今回は僕が大好きなジネッタでG4RとG12が同時に見られただけでも幸せです。秘密の情報も得たことだし…
今でも当時の姿(中身は変更があっても)そのままに新車で手に入るクルマというのは数少ない存在と思います。しかもそういうクルマは何故かイギリスに多いというのは、恐らくバックヤードビルダーが生き残れる環境とリンクしていると思われます。これこそがイギリスの特殊性であるとともに特徴なのだと思っているのです。日本では到底考えられない状況だと思います。日本における標準化と差別化というのは一見すれば良いことのようですが、ジツのトコロ“枠に収まらないモノを淘汰する”作業だったように思えてなりません。イギリスのバックヤードビルダーが温々と生存できているはずは勿論ありませんが、日本なら“瞬殺”状態に近いとすればどうなのでしょう。

最後に「う~ん」はしないでね(笑)
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Alfa Romeo MiniCar Collection
2008-10-22 Wed 19:11
前回は大いに盛り上がった“MASERATI MiniCar Collection”
今回はAlfa Romeoシリーズの第2弾です。前回は車検の終わった翌日が発売日で運悪くゲットすることができませんでした。今回はそれの雪辱戦ということもあって燃えています(笑)

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コスモス狩りを終え、そのまま熊本を目指した我々ですが、今回も大分県から最も近い店舗、サンクス熊本大津吹田店で購入します。

到着して探すと箱に全部収まった状態であります。前回は歯抜け状態になっていましたからコンプリートは無理だったかも知れません。その状態で純粋なダブリが1台だけだったのは幸運としか思えません。
イヤでも「コンプリート」への期待は膨らみます。が、しかし一箱目を引き抜く時にしっかりと納まっているためか、手に強いテンションが掛かってしまいました。こういう余計な力は手の感覚が鈍るので避けたかったのですが、持ってみなければ重さがわからないので仕方がありません。
ところがです。

持ってみても全然わからない!

軽いと感じたものは隣に分けておき、もう一度持ち比べてみても重さの違いが分からないのです。重いグループも僅かに重いか軽いと感じたものがあり、それを別にしますがその差とてやっと違いが分かるレベルなのです。しまったさっきの余計なテンションで感覚が鈍ったか…
か~なり自信がないので保険として追加購入を軍曹に申請すると「何個追加?」というので「2個」というと安心して許可が下りました。結局、合計12個を購入しました。
レジに進むと軍曹も狙いの商品があったらしく「私は2個で我慢するから(怒り)」と差し出します。その様子はかなり面白いらしくお店の人に笑われてしまいました(笑)
お店のハナシではAlfa Romeo MiniCar Collectionに関しては追加発注ができるそうです。他のシリーズは最初のロット発注だけで後の注文は受けないそうですが、Alfa Romeoだけは何故か3ロットまでの追加発注ができるそうです。何故にそうなのか京商の社員を小1時間問い詰めたいw
そうやってオハナシしていると背後での異変に気付きました。薫が泣いているのです。しかも声を立てずに(笑)実は先程、コレが欲しいとのたまっていたのですが前日に他のオモチャを買ってもらっていたので「我慢しなさい」と言ったのです。彼が欲しいと言った“SKYLINE COLLECTION”は買わずにはこの場を凌げないようです。一台だけと約束して買って上げました。

という事で開封式に入りたいと思います。
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重いグループを3台セレクトして開けてみます。

最初が156GTAのRosso。156オーナーなら持ってないとね(笑)

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重さが微妙な一箱は…147 GTA(被らんかった)

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次は156GTAの青だー。被っちまったorz

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軽い方もも開けてみます。
最初はTipo33 Stradaleです。しかしネロだ…
これはアバルト美術館が健在だった頃に見に行けば良かったと今でも後悔しています。

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こうなると片っ端から開けていきます。
Giulietttaだー!しかしシルバー。コレはビアンコかロッソだろうね。

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次、TZ2(よっしゃー)色はロッソではないですが…

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チョイ重めの箱を…おっ、やって来ました155V6TIタソ。
BTTCを制した94年のマシンです。

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調子こいてもう一箱を開けてみましょう。
な~んだSpiderです。しかもシルバー(コテコテじゃん)

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ショウガナイ、軽い方を開けてみましょう。
TZ2のシルバー…これで後がなくなりました。

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ならばどうよと開けてみたのがTipo33 Stradaleのロッソ~キタ━(゚∀゚)━!
被ってしまったので一台落としましたです←確定

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次、Giuliettta。希望色ビアンコだぜぇ~ ついでに2台目落としたの確定orz

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そして運命の最後の箱……ブレラ。
軍曹はブレラが好きなので大喜びですが、ちょっと複雑な心境(笑)

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結局、12台購入して159SWとRZが出ませんでした。
前回の“MASERATI MiniCar Collection”同様に重量を計ってみます。その結果、何故今回はこれほどの苦戦をしたのか嫌というほど思い知らされます。

156GTA 48g
147GTA 46g
Giuliettta 38g
Brera 48g
Tipo33 38g
155V6TI 46g
TZ2 38g
Spider 49g

これじゃ~分からなくても当たり前です。
何、ウェイトコントロール始めた訳ッ!?

でも逝って置くぜっ、

2グラムの差はチャンと感じたとな(核爆)


別窓 | ミニチュアカー | コメント:25 | トラックバック:0 |
盆と正月が一度に来たみたい
2008-10-20 Mon 07:41
どうも休みに出掛けた後の回復が遅れるようになったトコロをみると、順調に老化が進んでいるようです。コスモス狩り~熊本で実家に一泊し翌日は畑で芋掘りして帰宅、夜は友人のフラメンコの公演が市内であってそれに出掛けてくるという我家にしてはタイトなスケジュールでした。

さて僕等のようにクルマを趣味とする人間ならAlfa Romeoの蛇に限らず、骨の髄までやられたい、と思うのはアバルトの“蠍の毒”もそうだしシトロエンの“ヘヘ病”もそうかも知れません。その内の一つでありかなり厄介な病と思えるのが“セブン症候群”ではないかと思うのです。かく言う僕もかつてかなり真剣にスーパーセブンが欲しい時期があり、それはいわゆる波のように高くなったり低くなったりしていて「欲しい」衝動は常に海原のように満ちているのです。
どうもヨクヨク考えてみると僕は“セブン”と名の付くモノが好きなようです。以前、記事でも書きましたがRX-7はかなり具体的に買うトコロまでハナシが進みましたし、ウルトラセブンに出てくるウルトラ警備隊のメカはポインターを含めかなりツボなのです(笑)
お察しの通り、今回の目撃は“スーパーセブン”です。

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僕達は例年のコスモス狩りに出掛けたのですが、思い出の場所のあまりの変わり様に意気消沈してしまいました。気を取り直して別の場所に移動する事にしたのでした。記憶だけを頼りに目指す「小国コスモス村」は三愛高原から黒川温泉を経て小国へ出るのが最短コースなのですが、その三愛高原には「三愛レストハウス」というドライブインがあります。やまなみハイウェイの中間辺りに位置するこのレストハウスは昔から休憩場所や給油という重要な場所で、ツーリングでは必ず寄るとも言われるトコロなのです。
僕達も子供がいるのでココでトイレ休憩と思っていたのですが、交差点を曲がると駐車場には「明らかに周りのクルマから浮いた」マシン達が見えたのです。僕達が見たのは数台のFerrariでした。
来ていたのはF430を始めとするモダンフェラーリでしたが、残念なことに僕達が到着したと同じくして出発してしまいました。

ところが奥の駐車場にはスーパーセブンが居たのです。それも1台や2台などではなく大量に(笑)
もちろんスーパーセブンを見るのは初めてではありませんし、ある意味この手のクルマではメジャーなクルマですから何かしらの機会で見掛けてはいます。しかしイベントでコレだけの数を一気に見ることは初めてで、ケイターハムやらロータスに混じってバーキンが居たりとんでもないマシンが混ざっていたりで、もう冷静さなんかどこかへ吹っ飛んでいました(苦笑)

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もう無我夢中でシャッターを切っている僕はあの「小学生時代」に戻っていたようです。

スーパーセブンに惹かれる理由は人それぞれだと思いますが、多くの人は「速い事」を上げるに違いありません。実際にはトップスピードはそれほどではありませんが、加速力はフォーミュラーカー並みで、コーナリングスピードは下手な国産スポーツでも敵わないほどです。全く違うのはそのフィーリングだと思います。自動車が登場して快適に速くを目指して来たのに対し、スーパーセブンはどこかでその考え方を辞め、全く違う方向へ進化したクルマだと思います。

7シリーズはその前身Mk-6に端を発するモデルです。
アンソニー・コーリン・ブルース・チャプマン(Anthony Colin Bruce Chapman)は1928年5月19日にイギリスのサリー州リッチモンドに生まれました。ひとりっ子だったコトもあり、大切に育てられ、ユニヴァーシティー・ロンドン・カレッジに入学し、構造力学を学ぶ学生になりました。当時、大学までの通学にはバイクを使っていましたが、新入生歓迎のダンスパーティから帰宅途中にタクシーと衝突、大怪我を負ってしまいます。その年のX‘masに両親がプレゼントしたクルマが自動車との初めての出会いとなります。すっかりクルマの魅力に取り憑かれたチャプマンは、クルマの世界にどんどん嵌って行きますが、やはりクルマの維持は当時もそれなりに嵩んだ様で、資金を捻出するために始めたのが“中古車の販売”でした。当時のイギリスではまだ自動車の生産が十分とはいえない時代で、ガソリンにも統制が掛かっていました。それで中古車には人気があり当初はそこそこの成績だったようです。この時期にチャプマンは運転技術だけでなく、セールスやビジネスの基礎知識を身に着けています。
トコロが新車の生産も伸び、ガソリン統制が終了した47年10月に中古車の価格が大暴落してしまいます。中古車の販売に見切りを付けたチャプマンは在庫車の一掃整理をするために大放出するのです。概ね売れたのですが売上げは普段の半分にも満たないほど。しかも、どうしても売れないクルマが残ってしまいました、それは当時でも17年落ちの1928年型オースチン・セブン(登録ナンバーPK3493)でした。古臭いスタイルと10HPのエンジンで売れる可能性などない大古車です。この売れ残ったセブンベースの製作を思い付いたトコロからロータスの歴史は始まったと言って良いと思います。
彼のパートナーだったコーリン・デア、ディレック・ウェットン、ヘイゼル・ウリィアムズの4人で勝手にウリィアムズの家のガレージを使ってほとんどシャシーを作り変えたマシンが完成し、別の車として登録ナンバー(OX9292)を所得し、これが“ロータス”の名を冠した初の自動車となります。彼等はこのクルマを“8”と呼びました。推測ですがオースチン・セブンベースだったので洒落で“8”としたのではないかと思われます。48年にはマイナーレースに参戦し、3戦のみのエントリーとはいえその速さに注目を浴びる事になります。何故、チャプマンが“LOTUS”の名を冠したか語ってはいないのですが、一説に寄ればガールフレンドのヘイゼル・ウリィアムズにつけた“あだ名”が”LOTUS”だたからだと言われています。ロータス(LOTUS)は英語で『蓮』の意味です。ギリシア神話では『ΛΩΤΟΣ(ロートス)』と言い、その実を食べると浮世の苦しみ全てから解放され、夢が叶うとされているのですが、彼女がその「蓮の実」だったのでしょうか。
チャプマン自身はセブンのエンジンでレースを戦うのは役不足と考えていたことから、より強力なエンジンを搭載したモデルを構想します。これがMk-2です。ちょうど時同じくしてカレッジを卒業したチャプマンは工学士を得、徴兵制度のためにパイロットとしてイギリス空軍へ。休暇になるとMk-2の製作に没頭する生活を送ります。これも推測に過ぎませんが、この空軍時代と大学時代の経験がその後のロータスの礎を築いたのではないかと考えています。パワーがない市販エンジンでレーシングマシンを相手にするには徹底的な軽量化を抜きには考えられなかったのですし、航空力学という観点からグランドエフェクトカーが発想されても不思議ではないからです。
49年にはMk-2は完成しましたが、フォード8のエンジンに換わって更にパワーのある10のエンジンを搭載し50年からレースに参戦します。Mk-2は高い戦闘力を発揮し、チャプマンとヘイゼルの手で総合優勝4回、クラス優勝4回と好成績を挙げます。特に1950年6月3日にシルバーストーンで開催されたエイトクラブ主催のレースでは、GPレーサーのブガッティType37と競り合い優勝してしまいます。これによってロータスは注目されるようになります。
チャプマンはこの時マイケル・アレンとナイジェル・アレンの兄弟に出会います。チャプマンはより本格的なレーシングカーの開発、販売に着手し、彼らが所有していた郊外のガレージでMk-3とMk-4を完成させます。

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当時のイギリスは自動車物品税が高額でした。反面自分で組み立てるキットカーの税率が低かったことから、Mk-3、やMk-4はキットカーとしても販売されました。イギリスでバックヤードビルダーが多く誕生する背景にはこのような理由がありました。エンジンを好みで他のエンジンにすることもできたことから人気を博し、特にMk-3は当時のイギリスで人気のあったフォーミュラ750カテゴリで無類の強さを発揮しロータスの名は着実に高まって行きました。本格的なレーシングカー製造販売を目指していたチャプマンはMk-3の成功により、いよいよ市販モデルの構想に着手します。
チャプマンはマイケル・アレンと共に1952年1月1日、ロンドンのホーンジー、トテナム通りにロータスエンジニアリングを設立します。正式な会社組織としてスタートしたロータスですが、このガレージはチャプマンの父親が経営していたホテルの馬小屋跡を使ったものでした。自動車の登場で馬を使うことがなくなりその小屋が残っていたのですが、クルマを2台も入れれば身動きできない狭さでした。しかしロータスの評判は上々で注文が常に舞い込み、工場はフル稼働でした。
そしてここで生まれたのがあのMk-6です。

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Mk-6はそれまでのベース車両の改造シャシーはなく、専用設計されたシャシーを持つ初のモデルです。プロトタイプは順調に完成し、テストを兼ねて1952年7月からレースにエントリーされますが、その年の8月マイケル・アレンが公道で運転中にクラッシュ、これがきっかけとなりアレン兄弟はロータスを離れることになります。
創業メンバの半数を失い、スタート間もないロータスは危機を迎えますが、チャプマンと、その婚約者であるヘイゼル・ウイリアムズを取締役として、そしてエンジニアとして新たにマイク・コスティンとフランク・コスティンの兄弟を迎え、1954年1月1日株式会社として再出発します。奇妙な事にここでも兄弟がやってきています。フランク・コスティンについてはご存知の方も多いと思いますが、デハヴィランドという航空機メーカーの出身です。デハヴィランド在籍当時からレーシングカーの設計を行っていたらしく、風洞実験をデハヴィランドの設備を使って行っていたのは当時としてはかなり先進的だったと思われます。フランクは名作ロータス11やマーチ711の産みの親ですが、ロータスの後ジェム・マーシュと設立したマーコスが初めて発売したスポーツカーは、何と木製モノコックだったそうです。そう、デハヴィランドと言えば木製モノコックの高速双発機「モスキート」の製造元です。コスティンが木製モノコックを選んだのには、デハヴィランドを初めとするイギリス航空産業に於ける木製モノコック構造の技術的裏打ちがあったためとも言えるでしょう。
弟のマイクは後のコスワースの設立者です。
軽量なスペースフレームを持つMk-6は、その高性能とは裏腹に同レベルのライバル車と比べて安価でありプライベートレーサー達に好評をもって受け入れられました。実質的にキットカーの販売で様々なオプションを用意したことも顧客の購入意識に大きく寄与したと思います。何しろMk-6は量産車とはいえ純然たるレーシングカーだったからです。Mk-6は1955年まで製造され、その間100台から110台が出荷されたが、その間ロータスの工場はほぼフル生産であり、経済的にもかなりゆとりができてきました。
そしてMk-6の流れを汲むセブンが登場するのは57年のロンドンモーターショーです。Mk-6譲りのチューブラーフレームにアルミのボディーを貼り付けるセミモノコック構造のクラブマンで、FRPのセミモノコック構造を採用したエリートと同時に発表されます。
スタビライザーとアッパーアームを兼用したダブルウィッシュボーンによるフロントサスペンションと、A形のアームでアクスル(ホーシング)の前後・左右・回転の三方向の力を支える、センターAアーム式のリアリジッドサスペンションが特徴的で、これにより部品点数の削減によるコストダウンと軽量化を兼ねていました。
このセブンからはそれまでの開発コードMk~という名前からMkを省略するようになり、またエリートのようにキャラクターネームが付けられるようになります。フォード製100Eや116Eなどを搭載するベーシックモデルは単に「ロータスセブン」と呼ばれ、更にチューンアップされたコベントリー・クライマックスFWAを積んだ高性能バージョンを「スーパーセブン」と呼び分けていました。 ロータスセブンはシリーズ1~シリーズ4までのモデルチェンジが行われ、いくつかのバリエーションの完成品、またはキットフォームの形態で販売されました。
セブンシリーズもかなりの成功を収めたモデルとなりましたが、イギリスのキットカー優遇制度がなくなるとその販売数に翳りが訪れます。
またチャプマンはセブンを活動資金源として捉えていたのが正直なところで、エリートのように生産コストが嵩むクルマを生産するに比べれば比較的安価に生産できることや、F1への進出によってレース資金が必要だったこともその原因でした。シリーズ2までは順調に売れていたセブンも、66年にはセブンの生産は一時的にストップし、67年には正式に生産終了が発表されています。この年にシリーズ3は発表されるのですが、それはシリーズ2の生産を求めるユーザーの声によるものでした。シリーズ4では、当時、最新のレーシングカー技術を取り入れ、スペースフレーム+FRPボディーが使われ更なる軽量化が試みられています。ロータス社内のモデルナンバーも、当初の7から60に変更されています。ところがシリーズ3以前のクラシカルなセブン像を求めていたユーザーにはシリーズ4は受け入れられず、それに加えてアメリカの5マイル規制によって保安基準が満たせないこともロータスを落胆させるに十分な原因となります。ロータスは国内の需要だけでは不十分と考えていただけにアメリカへの輸出が不可能になったことでセブンの生産を終了することになります。
そのアメリカ市場に対するモデルとして登場したのが以前、記事にも書いたヨーロッパでした。
ロータス社はセブンの生産を終了した際、よりステップアップする為の資金源として、ロータスの代理店であったケイターハム社が1973年にセブンシリーズ4の製造販売権と、在庫部品、製造治具などの生産設備を売却する契約をします。実はケイターハムの経営者グラハム・ニアンはセブンに惚れ込んだ一人で、61年にケイターハムの権利を買い取ってまでセブンを売ろうと思った男です。66年の生産ストップの時にはチャプマンに直談判し再生産と独占販売権の約束まで取り付けています。
ケイターハムはセブンの製造権を獲得するとセブン・カーズを設立し、ロータスのエンブレムの代わりにセブンのバッジをつけた「スーパーセブン」を発売します。しかし当時のケイターハムではFRPボディーを生産するには十分な設備がなく高度なスペースフレームも作るノウハウがありませんでした。シリーズ4のボディー60台程度を生産した時点で生産を打ち切り、比較的製造が容易なアルミボディーのシリーズ3に近いモデルへ移行しています。コレ、実のところ契約上の問題はなかったのか疑問なのですが、特に訴えられたということもなかったようです。またこの点について以下に記載している「バーキン」設立で「ケイターハムとはシリーズ4の製造・販売権利を譲渡したが、シリーズ3以前のモデルは設計図も販売権も譲渡していなかったので商標権以外は問題がなかった」とされていることです。
82年に、チャプマンが心臓発作で死去すると、ロータス社を継いだ妻のヘイゼル・チャプマンは人件費の安い南アフリカに支社を設立し、現地へ移民したイギリス貴族バーキン卿の起こした「バーキン」というレプリカ専門のメーカーに、製作が容易なシリーズ3セブンの再生産を任せる計画を立てます。(バーキン卿の祖父はルマン24時間レースで2度の優勝歴がある車好きである) ヘイゼル・チャプマン、当時のロータスF1ドライバーを招いての発表会のために2台のバーキン社製のロータス セブン シリーズ3が制作されたと言われています。
しかし、アパルトヘイトの問題でロータスの計画そのものが頓挫してしまうと、以後、その時の契約を盾に、バーキンはロータスと関わりなくセブンの生産を続ける事となります。後にケイターハムとの裁判にて、前記の正当性から当然シリーズ3車自体の製造権が認められますが、(スーパー)セブンの名前は、シリーズ4の販売権を正式に購入したケイターハムが使用する事になり、痛み分けで終了しました。この裁判の結果、バーキンのセブンにはホーンボタンの上にステッカーを貼って7の文字を隠しているものがあります。この時やはりセブンのレプリカを生産していたウエストフィールドとも裁判をしていますが、ロータス社と関わりが無く、正当性に欠けるウエストフィールドは敗訴し、ボディデザインを若干変更し、シリーズ4の様なFRPで制作する事となります。
セブンを模したモデルはそれこそ数多く存在し本国イギリスでは、ウエストフィールドなど、低価格で購入出来るセブンに人気が集まり、ケイターハムよりも多い販売台数になった事が、このような裁判に繋がったとされていますが、実際はどうなのでしょう。というのも、ケイターハムがなければ現在までこれほどのセブンが生き残る時代はなかったと思われるからです。またケイターハムこそがロータスから正当にセブンの製造・販売権利を受けたという自負もあると推測します。
チャプマン自身はセブンに対して熱心というわけではなかったようですし、ヨーロッパ以降のロータスが生産したクルマへ早く移行したかったのが本音だったと思われます。事実、ヨーロッパの発表やエランの成功で度々セブンの生産を中止する機会を窺っていますし、正式な生産終了もアナウンスされているのです。チャプマンが熱心でなかったが故に、資金的に苦しかったであろうグラハム・ニアンがセブンの製造・販売権利を購入できたのも原因だろうと思うのです。つまり二束三文に近かったのではないかと。
今も昔もロータスから正式に製造を受け継いだのはケイターハムですし、その後は独自に改良され現在はケイターハムのスーパーセブンと呼ぶ方が相応しいと思います。恐らくロータスからの脱却は85年のリアサスペンションを変更した時点で、既にロータスセブンではなくなったのではないでしょうか。
また模倣して生産したセブンを「ニア・セブン」と呼ぶのですが、これをケイターハムに当てはめるのは少しおかしいと思います。
今回はロータスの創成期に纏わる重要なクルマとしてセブンを取り上げたのですが、何しろ創成期のロータスを記事にする絶好のチャンスだったものですから、結構資料を引っ張り出して纏めました。本によっては事実関係が異なっているものですから、詳細ではまだ間違っていることもあるかも知れません。あのウィキペディアの記述さえ受け取り方の問題と思われる記述もあり微妙です。
細部についてはまだ補足や再リサーチが必要と思う箇所もありますので、今後加筆訂正はありそうです。
それにしてもサラっと終わらせようと思ったのに、調べだすとキリがなくなってしまうんですよね(苦笑)
お陰で「Alfa Romeo Collection2」の記事が全然できてないですが何か(笑)

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コスモス狩り
2008-10-13 Mon 23:00
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昨年も記事にしましたが、我が家恒例の「コスモス狩り」に今年も行ってきました。
前回はくじゅう花公園がその舞台となりましたが、今年は別の場所にしようという事で、やまなみハイウェイの途中にある無料のコスモス園を目指します。ココはその昔、結婚前に軍曹@家内と度々訪れたトコロで思い出深い場所です。
いつもと違うのは、今年は僕の親達が一緒ということです。今回は156もXantiaもお留守番です。
今回は移動のクルマが「エルグランド」です(笑)
210号線を走って途中の道の駅でトイレ休憩などを含み、1時間半ほどでその場所に到着しました。
が、しかし凄く少ない!
僕らが記憶しているコスモスの数より圧倒的に少ないのです。そればかりか遅咲きの向日葵が当時は植えられていましたが、それもなくなっています。
かなりガッカリして「他の場所にしようか」と誰ともなしに出て来ました。
小国にコスモス園があるという記憶だけを頼りにその場所へ移動します。

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164OC「湯けむりの里ば、よかとこ作戦」でも取り上げられたやまなみハイウェイを走り三愛レストハウスの交差点から442号線旧小国街道を抜けへ212号線を内の牧に向かって走るとそのコスモス園はありました。

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小国コスモス村です。
入場料は大人500円、小学生以上100円です。よって薫は無料。
5~6分咲きという案内がありコスモスの見頃には少し早いようですが、サルビアやマリーゴールドが満開で見応えがあります。

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くじゅう花公園が畑の様相ならコチラは明らかに山。かなりの起伏があり足腰に良さそうです(笑)運動不足が気になる方は一度足を運んでみるのも良さそうです。

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いくつかの品種は種が販売されていました。因みに「サカタのタネ」(ぷっ)
大観望で昼食を取ろうと思い途中からミルクロードに入って到着してみると、まるで休日のデパート駐車場のような様相。また来た道を戻り、途中の展望台でお弁当を食べ(写真忘れました)ました。

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そのまま内の牧を出て57号線へ入り一路、熊本市内へ。向かうは、サークルK(核爆)
やっと「例のブツ」を仕入れ、大分へ戻ります。
ミルクロードから阿蘇スカイラインへ入り、右手に見えますのは阿蘇の外輪山でございます、と車内は盛り上がります。やまなみハイウェイへ出た後、途中でソフトクリームを食べ、442号線から690号線を伝って途中で頼んでおいた寿司とオードブルを受け取り、実家へ到着。
一風呂浴びて旅の疲れを癒し、ビールを飲みつつ今日は終わって行くのでした。
正直、日帰りとはいえ全道程400km近い距離を一気に走破するのはそれなりに疲れます。それに加えて1日の気温差。午前中は上着が必要な気温でしたが、日が差し出しての午後は半袖でも暑い気温です。これだけでも体に堪えます。

この日は別の「サプライズ」があったのですが、それはまた別に。

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シトロエン最大の失敗
2008-10-05 Sun 21:22
1982年に登場したアウディ・クアトロがその後のラリーに対する概念を大幅に変えてしまったことはご承知だと思われます。一方ランチアはラリー037を投入すると翌83年には一騎打ちの状態となります。しかし84年にプジョー205ターボ16を投入し新たな敵となりました。後輪駆動の037では勝てないと悟ったランチアが投入したのがかのデルタS4であり、この頃になると市販車の面影はどんどん薄くなっていき、パワーもエスカレートするばかりになります。95年頃になると1tそこそこのボディーに600psに迫ろうかというエンジンを載せ、次第にコントロールを失っていくのです。

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そんな86年にシトロエンが投入したのがBX 4TC EVOLUTIONです。このマシンは同じPSAの205とほとんどコンポーネントを共用しませんでした。唯一同じだったのはミッションがSMからの流用だったくらいです。エンジンはプジョー505ターボの2141ccエンジンを縦置きに搭載しKKK製K26ターボチャージャーで380psを発生するも、当時のライバルが500psを超えていた時期で戦闘力は知れていたと思われます。また4WDシステムはフルタイムシステムが当たり前だったのにパートタイム方式を採用していたのです。そして極め付けは「ハイドロニューマチック」で戦ったことです。
本来がグループBの中では大振りなボディーであり、そこでエンジンを縦置きにしたことで約300㎜も延長されたボディーとなって、正直、どこまで勝つ気があったのか疑わしいマシンが出来てしまいます。
86年のモンテカルロ・ラリーではクラッシュとサスペンショントラブルでリタイア。第2戦スウェディッシュ・ラリーでは一台はエンジントラブルでリタイアでしたがJ.C.アンドリューが6位で完走。第6戦アクロポリス・ラリーでは3台投入したがいずれもリタイア。ここで第5戦のツール・ド・コルスで崖から転落してトイボネンとセルジオ・クレストの死亡した事故を受けFISAは翌年からグループBを廃止する決定が出されると、シトロエンは早々に撤退してしまいます。
何と3回しか出場する機会がなかったのです。
さてグループBに参戦するためには200台を生産・販売しなければなりませんでした。従ってこの4TCも市販されています。

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エンジンは200psにデチューンされています。他でもメータなど目に付く変更点がありますが、最大の違いはサスペンション形式がノーマルのフロントがマクファーソンストラット、リアがセミトレーディングからダブルウィッシュボーンに変更されていることでしょう。
外観はコンペディションを彷彿とさせる如何にもなパワーバルジとブリスターフェンダーが装備され、このマシンがタダモノではないことを教えてくれていますが、僕はお世辞にも美しいとは思えません。ノーマルのガンディーニデザインが持つ近未来的なデザインにこのような装備が備わることで、何かしらアニメチックなものを連想させてしまうからです。ランチア デルタのボディーワークが素晴らしいことを考えると、どうもシトロエンはこの辺のアレンジが下手なように思われます。
この4TCは200台販売される事になっていましたが、実際にはそれより大幅に少ない40台ばかりが実際に販売されたに過ぎません。一説には62台という説もありますが、少ないことには変わりありません。売れ残った4TCはシトロエンに引き取られ、スクラップ処理されてしまっています。つまり販売面でも大失敗。
日本には現在、フェイズ1とフェイズ2の2台が存在しています。そのうちの貴重な1台が今月のカーマガジンのシトロエン特集で採り上げられています。興味のある方は書店でお求め下さい。

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というか調べていたら、このカーマガジンに登場した4TCのオーナーさん が運営するブログを発見してしまいました。

それと比較的ミニチュアの世界では恵まれていないシトロエンですが、何とPROFIL 24というフランスのメーカーから1/24でエンジンまで再現されたレジンキットが発売されています。

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ixoからも1/43で発売されていますがディテールがイマイチだったことを思うと決定版かも知れません。ただ値段がね(笑)

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