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タイヤ、交換しました
2009-01-29 Thu 19:34
そろそろ2周年のハズだがと昨年の記事を見たらナント過ぎていた・・・

Σ(゚д゚lll)ガーン

26日だったよorz


滅多に記念日を忘れない僕としたことが、何というコトでしょう←コレも匠の粋な計らい(加藤みどり風に読んどくれ)
もう半分ヤケクソですが何かwww

トコロでタイトルの通り、タイヤを交換しました。
前回、ディーラーで点検してもらった時点で「次回の車検までには交換して置いてくださいね」と言われていたタイヤを交換です。多分、皆さん同じだと思うのですが156のフロントはハデにネガキャンバーが付いているので内減りが著しいのです。外側で目視するとまだ目がありそうなのに、そのジツ内側は見事にツンツルテン、は極普通に有り得るので注意が必要です。ご多分に漏れず、僕の156も同じ状態でしたが本来のケチ根性で何とかココまで持たしたのですが、どう考えても車検には通りそうにありませんので交換と相成りました。
01Rは現在、Webカタログに掲載されていますが実質的に店頭で販売はされていませんし、サイズそのものがカタログ落ちしています。
候補としては510さん推奨のBARRUMも興味があるのですが、現在の足回りが車高調+ピロアッパーでタワー&ロアバーという仕様では若干不安な感じがします。つまりノーマル、それも本国仕様の足でこそ良い仕事ができそうなセレクトのような気がするのです。今回に限っては国内メーカーのスポーツタイヤからセレクトすることにしました。
何しろ、今まで履いていた01Rはグリップ限界を追及したスパルタンモデルだけに候補は限られるのですが、横浜のNEOVA AD07はモデル末期ということもあり当然割安ではあります。しかし1ヵ月後にはニューモデルのAD08が登場するのがわかっていますし、当然そのモデルが先行したRE11に対抗すべく開発されたモデルに他ならないわけで、現状でAD07を選択する理由は価格以外に見当たらないのです。
そうなるとPOTENZAユーザーが行き着くトコロは結局POTENZAかと。

potenza_re11.jpg

こ~んずさんには敵わないとしてもRE71からのPOTENZAユーザーですし、ある意味自然な流れですね。コンフォートの050かスポーツの11か・・・
と、いうことで今回は後継モデルのRE11となりました。

POTENZA オフィシャルWEB

RE01Rがいわゆるスパルタンというか快適性を切り捨てた特殊なタイヤだっただけに、後継のモデルのRE11にこの部分は求めていませんでした。
トコロがです・・・

イイネッ!(笹本さんパクらせていただきました、スミマセン)

うんメチャクチャいい。それこそ段差をガツッと拾っていたのが、コンくらいに変化します。
タイヤにもう一つサスがるみたいにしなやか。決してヤワな感じじゃなくてサイドはしっかりしているんだけど、タイヤが吸収しているような印象です。
峠には持ち込んでテストしていないので限界域のポテンシャルはまだわかりませんが、POTENZAシリーズは限界を超えようとするトコロのインフォメーションがわかりやすくて、かつコントロールしやすいトコロがお気に入りでした。ピーキーといわれる01Rでもその感じがあって乗りやすかったのですが、今回のRE11はスイートスポットが広くなっているということですから、限界手前までは01Rよりマイルドなのかも知れません。
チョイ乗りの印象では初期レスポンスが凄く敏感ですね。レーンチェンジで拳ひとつ分切り込んだ時などはノーズがタイムラグなく切った方向へ向きを変えてくれます。156は足のセッティングが元々そういう味付けなのでRE11は相性がいいかも知れません。
反応がいいのでクルマが軽くなったような錯覚になります。思わず顔がニヤケてしまいました。

potenza_re1101.jpg
potenza_re1102.jpg

タイヤサイズは215/45R17で今回は4本全て交換しました。エアは窒素ガスを入れています。
タイヤ交換、バランス取り、廃タイヤ代全て込みで
120,000円でした。

交換時走行距離112,623km

さて2月はディーラーに車検の予約を取ってあります。何が出てくるでしょうか。

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164 PRO-CAR
2009-01-26 Mon 06:24
去年にリリースのニュースと同時に予約したSparkの164 V10 PRO-CARが遂に入荷した、との知らせが入り受け取ってきました。MINICHANPSの164も久し振りの164モデルということもあって一部でかなり盛り上がりましたが(笑)
今回のモデルも珍ラインナップということもあり「果たして本当にリリースするのか」少し疑わしいミニチュアモデルでした。

164procar01.jpg

クオリティーはSparkらしいもので、レジンモデルならではのシャープなスジ彫りやエッチングのモールなど質感が良くできたモデルといえるでしょう。定価が6400円と他のモデルと比較しても若干高いのですが、このようなマイナーモデルでハイクオリティーな製品ならムリからぬプライスでしょう。
ケチをつけるというか残念なのはフロントライトの再現なのですが、実車はスタンダードの164に倣っていますが、モデルの方は何故かクリアカバーの中にあたかもプロジェクターランプが装着されたかのようなモノになっています。クルマの顔ともいえる重要な部分だけに残念。少し角度も立ち過ぎな感もあります。まぁ、この辺は原型を作った人の感覚が出ますのでイロイロいえない部分ですが(笑)

164procar02.jpg

写真で見るとピンクの発色があり、若干蛍光色が含まれていると思われます。

164procar03.jpg

最大の見せ場である3.5ℓ V10エンジンもミッションを含め、かなりそれらしい再現となっています。

164procar04.jpg

今回の164 V10 PRO-CARはマニアックというか、実にSparkならではのセレクトだったと思われます。恐らくこんなマシンが存在していたことすら知られていないマシンで、誰もが飛びつきそうなFerrariなどのマシンとは対極にあるモノだからです。
Alfa Romeoは、戦後にTipo158と159というマシンでF1に参戦しレースの名門たる実力を思う存分見せつけましたが、その後、資金難に陥り76年までF1に参戦することは適いませんでした。
ブラバムとの契約が切れた1979年に自社製シャシーで復活を遂げたAlfa Romeoは179と182にV12エンジン、83年の183からはV8エンジンで戦いますが、信頼性の問題から戦闘力が低いものでした。戦績は83年にAndrea de CesarisがドイツGPと南アフリカGPでマークした2位が最高位で、完走することすら儘ならない状況でした。
85年を最後にF1からは撤退することになるのですが、この85年に164 V10 PRO-CARプロジェクトは始まったといえます。正確に言えば3.5ℓ V10エンジンの開発がこの時、決定したのです。このエンジンはリジェのF1マシンに供給する予定でした。85年頃というとターボ全盛の時代でしたがNAに移行することを読んでの対応だったと思われます。排気量も上限枠一杯の3,500としたのは当然でしょう。
開発の陣頭指揮を執ったのはPino D'Agostinoでした。彼はシリンダーブロックを72度の角度で鋏むV型エンジンを構想していました。このエンジン形式が最も最良だと考えていたようで、当時のフォーミュラーカーに搭載されるV8エンジンに取って代わる新しい時代のエンジンと位置付けていました。
72度という角度は中途半端な角度と思われるかも知れませんが、4サイクルエンジンは吸気と排気の2回転中に1回爆発します。つまり720度で1回の爆発ということになります。それを気筒数で割った角度が最適なバンク角となるのでV10エンジンは72度が理想的な角度となるのです。
85年11月に開発は正式に認可されたこのエンジンの開発スピードは極めて早く、86年7月1日には最初のテストが行われています。ルノーは翌年、ホンダは1ヶ月後にやはりV10エンジンを発表しています。

164pro06.jpg

このテストでマークした成績は583hp。この結果に満足したAlfa Romeoはこのエンジンを熟成させていく方向で決定します。このエンジンで培った技術は現在のF1にも基礎技術として使用されています。
このエンジンのシリンダーブロックは高密度シリコンが配合されたアルミ合金製でピストンにもこの合金が使用されていました。この当時はまだ高価なチタンがふんだんに使用されコンロッドなどの強度部品以外にもバルブやタペット、フライホイールまでもがチタニウム合金が奢られ、かなりのコストが掛かっていたに違いありません。このバルブは当初1気筒当たり4バルブでしたが後に5バルブに変更され、最終的な出力は620hp/13300rpm、39kgm/9500rpmに及びます。
しかしリジェとの契約が立ち消えになってしまい、Alfa RomeoがF1にエンジン供給するというプロジェクトも夢となってしまいました。行く先のなくなったV10エンジンは暫くの間、まるで忘れられたかのようにワークショップの一角に捨てられるままだったのです。

トコロがFIATの最高幹部たちは新しいプロジェクトにこのV10エンジンを使おうと考えます。それがF1のサポートレースとして企画されたプロカー世界選手権だったのです。
それはかなり規制がゆるいもので、車体がベースとするロードバージョンのモデルと同一の形状なら、重量が750kg以上で、3500cc12気筒以下ならナンデモアリ、というレギュレーションだったのです。またこのレースの側面には多くの自動車企業をF1のエンジン供給に巻き込もうという狙いがありました。市販車とほとんど同じ車体に各社のハイテク技術が導入され戦績がよければ販売拡大へのより大きな広告効果があるから、様々なメーカーが参加するだろうと考えていました。
Alfa Romeoが(FIATというべきか)プロカー世界選手権に参加する決定をしたのも、恐らく宣伝効果を狙ってのことだと思われます。何故ならF1ではイイトコロを見せられず拡販に繋がらなかったからです。そのためベースカーは当時ツーリングカー選手権などのレースに参戦していた75ではなく新型車164がベースに選ばれるのです。ベースとはいっても形ばかりで、見ての通りエンジンが後部座席の場所に鎮座していて、ボディーはこのように分割式でしたから中身はほとんどGPカーです。メーター廻りはさり気なく164の面影を残していますし、空調なんかない筈ですが、送風口が残されているトコロなんか笑えます。

164pro01.jpg
164pro02.jpg
164pro03.jpg
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164pro09.jpg

Alfa Romeoはエンジンこそ完成させていましたが、そのエンジンに耐えられる新しいシャシーを開発しなければなりませんでした。そこで開発はF1時代の盟友ブラバムとMRD(Motor Racing Developments Ltd)に委ねられます。
シャシーはハニカム構造のノメックスアルミ合金にカーボンパネルを貼り付けて構成し、いわば1976年のBT45以降に培った複合素材による技術の集大成でした。

164pro05.jpg
164pro07.jpg
164pro10.jpg
164pro11.jpg

1988年9月までにエンジンが15基、ボディーは2台完成しました。Alfa RomeoはイタリアGPでこの164 V10 PRO-CARをデヴューさせる心算でした。この完成したばかりのマシンをテストすべくバロッコのプライベートコースにに持ち込みGiorgio Francia にテストを依頼します。ここではおよそ10日間テストが行われたのですがその時にマークした性能は、最高速度340km、0-400mは僅か9.7秒、0-1000mは17.5秒という記録を叩き出して、しかもそれがタマタマではなく常に引き出せる性能であることを証明しマシンの完成度は上々だったのです。
このテストを終えた数日後の1988年9月9日、イタリアGPの開催されるアウトードロモ・ナツィオナーレ・モンツァに持ち込まれます。このサーキットは高速サーキットで知られ、164 V10 PRO-CARをデヴューさせるには持って来いの舞台でした。そして衝撃的なデヴューを果たすのです。
ドライバーはブラバムの契約ドライバーだったRiccardo Patreseでした。ここでも164 V10 PRO-CARは最高速度329km、0-100km/h2.4秒をマークし、これはF1のパフォーマンスに手が届くほどの性能だったのです。市販車のようなボディーを持つ164 V10 PRO-CARがこれほどのパフォーマンスだったのは、パワーも然ることながら、そのボディーデザインのエアロダイナミクスが優れていたことも大きく寄与していました。
この時の走行シーンがYou TubeにUPされていますのでリンクしておきますね。

トコロがAlfa Romeoがプロカー選手権に名乗りを上げたものの、いつまで経っても他のメーカーからは参加する兆しはありません。Alfa Romeo以外チャンピオンシップのマシンを開発するリスクや経費を出そうというメーカーはなかったのです。プロカー世界選手権が始まることはありませんでした。
FIAはプロカー世界選手権そのもをお蔵入りしてしまい、折角完成した164 V10 PRO-CARもそのパフォーマンスを披露する場所を失ってしまいます。その後、ツーリングカーのレースはグループAのSuper2000規定が用いられるようになり、いよいよ3,500ccのエンジンは使いどころがなくなってしまいます。

どうしても15基も作ったV10エンジンの使いたいAlfa Romeoは、91年にWSPCの規定が変更されNA3,500ccのみとなることを受けてプロトタイプカーにこのエンジンを載せようと計画します。

ワルアガキもココまで来ると立派だ(笑)

元々この規定変更はグループCのエンジン規定をF1と同じにすればグループCに参戦するメーカーがF1にもエンジンを供給しやすくなるので、グループCもF1も活性化するだろう、というFIAの目論見でしたが、結果は全く逆でそれが裏目に出てWSPCに参戦していたメーカーの多数撤退を招いてしまい、翌年にはやっと開催できたという具合でレースそのものが消滅してしまいます。
Alfa RomeoはSE 048というV10エンジンを載せたマシンを完成させていましたが、レースが消滅しては走る場所がありません。このマシンも日の目を見ることは叶わずお蔵入りとなってしまうのです。

SE0481.jpg
SE0482.jpg

現在、この2台はAlfa Romeoの本拠地アレーゼにあるMuseo Alfa Romeoに保管されています。164 V10 PRO-CARは1度サーキットを走っていますが、SE 048は冗談抜きにお蔵入り(笑)
因みにこの博物館、撮影はOKらしいですね。



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サラリーマンでないということ
2009-01-21 Wed 18:10

どうも更新どころか最近コメントすらしていないために「生きているのか」と心配されてしまいました。
こういう状況にあったのはプライベートの状況が変わったからです。

サラリーマンを辞めました。

昨年から勤めていた会社の様子がどうも怪しくなってきていたのです。そして年明け早々に部門と本社の整理という事態になってしまいました。僕に言わせてもらえば「なるべくしてなった」としか言い様がないので然程驚いたわけではありませんし、会社を辞めようと思っていたのは昨年からでしたので絶好のチャンスだったのです。
しかしご存知のように未曾有の大不況(こういう事書くから余計に暗くなっちゃうんだよね)といわれる現状では再就職先がゴロゴロ転がっている筈もありません。

うむ、どうしたものか…

昔のように会社が従業員を守る時代ではないことはリストラ、とりわけ昨今の「派遣切り」を見るように明らかです。恐らく90年代の正社員リストラが問題になったことから真っ先に派遣や契約社員を切ったのでしょうが、本来そういう形態で働く方々には最初から有り得るハナシではあります。
正直ね、雇われ人には戻りたくないな、というのが本音なんです。

自立する道を選択することにしました。

同じ苦労なら自分のために苦労しても良かろう。
ココのところの静寂はその準備のためです。やらなきゃならないことはタクサンあります。

昨日がサラリーマンとしての最後でした。
今日から忙しいとはいっても自由は利く人間になりました。
人生こういう楽しみ方もあっていいんじゃないでしょうか。

別窓 | 日々記 | コメント:16 | トラックバック:0 |
日本の伝統
2009-01-04 Sun 03:40

昨年はこのブログにお付き合い下さりありがとうございました。
本年も昨年同様、変な観点から見たジドウシャの世界を書いていきますのでどうぞ宜しくお願いします。
忙しかった年末年始も漸く一段落し、今日は暫しの休息を貪りたいと思います。
今年は喪中ということもあって“明けまして~”は禁句なのですが、年が明ければあちこちでそういう言葉を掛けられ、最初は気にして「今年も宜しくお願いします」とだけ返していましたが、そのうち面倒になって普通に挨拶をしていました。どうやら日本人には体に染み付いてしまったクリシェなんだと思います。

ところで正月といえば昨日、すれ違ったクルマのフロントグリルに注連縄が付いていました。
「イマドキ珍しいな」と思ったのですが、考えてみるとこの20年の間ににクルマに注連縄を付ける習慣はすっかり廃れてしまったように思えます。家の玄関に注連縄を飾っている家も最近はかなり減ったように思えます。注連縄には結界のような意味があり、外部から家に死霊などが入らないようにすると言い伝えられて来たようです。縄張りという言葉の語源も注連縄の縄と同じ意味があったようです。

昔はクルマを所有するというのは一般庶民の憧れでした。昭和40年代ですらクルマを所有する家庭は裕福か商売を営んでいる家庭でした。現在でもクルマを買うという行為はそれがたとえボロ車であっても一種の興奮を伴うのは人間が持つ“スピードへの憧れ”を現しているのかも知れません。
そのような時代に所有していたクルマは恐らく家と同様に扱われていたのかも知れませんね。だから年末には念入りに洗車し注連縄を飾ったのでしょう。どうも「一家に1台」が「1人に1台」になり始めた頃から注連縄を飾る習慣が廃れ始めたようです。
クルマ以前はバイクや自転車にも注連縄を飾った時代があるそうですが、さすがにそれを見た記憶はありません(笑)

最近は正月でもお店は開いているし元旦初売りをウリモノにしている感さえあります。昔は正月といえば街が無人状態に近くなる唯一の時で、そんな中、1台だけでクルマを走らせるのもチョットした楽しみでしたが今では正月もクルマがやや少なくなっただけです。どうも季節の節目を感じ難い時代です。

注連縄と並んで門松も最近は富に少なくなりました。見掛けるトコロは限定されるように思えます。
どちらかと言うと松より竹が目立つ門松ですが、メインは松なのであって竹は添え物です。
本来は松=待つであり、その年の歳神様を迎えるために飾ったものでした。松の語源にも元々、神が宿る木から神を待つが転じ松となったとされています。
いずれにしてもかつての日本人が如何に厳かに正月を迎えていたかを感じさせる象徴なのかも知れません。
ついでに門松の竹は現在良く見かける先端が斜めに切られた“ソギ”と呼ばれるものと水平に切った“寸胴”があります。元は寸胴だけであったものが見栄えのするソギが好まれるようになったのは江戸時代からのようです。武家では寸胴で派手なソギが庶民に広まったのは江戸時代の町民文化が反映した時代的背景が大きいように思えます。

我が家は毎年、質素ながら注連縄を飾るのですが今年ばかりは飾れません。
しかし、全く何もないのはさすがに寂しくてこれなら大丈夫だろうと寄せ植えを作ってみました。

newyear.jpg

中心にアカマツを入れ、ハボタン、ワイヤープランツ、オキザリス・パーシーカラーを寄せ植えにしました。南天は枝を切って挿してあります。僕はこういう和風な寄せ植えを作るのは初めてでしたが、祖父がしていた盆栽を思い出しながら作ってみました。この寄せ植えのポイントは松以外全ての植物はポリポットのまま植え付けていて、時期が過ぎたらバラせるようにしてあるトコロです。ハボタンは1年草なので終わったら抜けば済むことですが、他の植物は多年草なのでこの環境で育つにはチョット無理があるからです。それに門松は廃棄するのだから最終的にはゴミになってしまいますが、この方法だとほとんどゴミがでません。チョットだけ環境にもヤサシイ(笑)

便利な世の中にはなったけど、古来から伝わって来た伝統や文化はオザナリにされるようになった気がします。生活水準も確かに上がったはずなんだけど、心は貧しくなっているような気がするんですね。
本当の意味で“生活のゆとり”は昔の方があったのではないかと思うんですよ。
今年は昨年以上に厳しい年になるだろうと言われていますが、打ち破るキーは“日本人は日本人に帰れ“なのではないかと個人的に思っています。要は外需型経済から早く脱却しないと、いつまで経っても「アメリカが風邪をひいたら日本が肺炎になる」という図式からは抜け出せないからです。
ヨーロッパはニクソンショックの時に損切りしてまで切り替えたのに、未だ日本はアメリカのドルを買い支えています。中国は内需型経済に切り替えると発表していますが、同じアジア人でも中国の一枚上手な感じは否めません。

別窓 | 日々記 | コメント:14 | トラックバック:0 |
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