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盆と正月が一度に来たみたい
2008-10-20 Mon 07:41
どうも休みに出掛けた後の回復が遅れるようになったトコロをみると、順調に老化が進んでいるようです。コスモス狩り~熊本で実家に一泊し翌日は畑で芋掘りして帰宅、夜は友人のフラメンコの公演が市内であってそれに出掛けてくるという我家にしてはタイトなスケジュールでした。

さて僕等のようにクルマを趣味とする人間ならAlfa Romeoの蛇に限らず、骨の髄までやられたい、と思うのはアバルトの“蠍の毒”もそうだしシトロエンの“ヘヘ病”もそうかも知れません。その内の一つでありかなり厄介な病と思えるのが“セブン症候群”ではないかと思うのです。かく言う僕もかつてかなり真剣にスーパーセブンが欲しい時期があり、それはいわゆる波のように高くなったり低くなったりしていて「欲しい」衝動は常に海原のように満ちているのです。
どうもヨクヨク考えてみると僕は“セブン”と名の付くモノが好きなようです。以前、記事でも書きましたがRX-7はかなり具体的に買うトコロまでハナシが進みましたし、ウルトラセブンに出てくるウルトラ警備隊のメカはポインターを含めかなりツボなのです(笑)
お察しの通り、今回の目撃は“スーパーセブン”です。

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僕達は例年のコスモス狩りに出掛けたのですが、思い出の場所のあまりの変わり様に意気消沈してしまいました。気を取り直して別の場所に移動する事にしたのでした。記憶だけを頼りに目指す「小国コスモス村」は三愛高原から黒川温泉を経て小国へ出るのが最短コースなのですが、その三愛高原には「三愛レストハウス」というドライブインがあります。やまなみハイウェイの中間辺りに位置するこのレストハウスは昔から休憩場所や給油という重要な場所で、ツーリングでは必ず寄るとも言われるトコロなのです。
僕達も子供がいるのでココでトイレ休憩と思っていたのですが、交差点を曲がると駐車場には「明らかに周りのクルマから浮いた」マシン達が見えたのです。僕達が見たのは数台のFerrariでした。
来ていたのはF430を始めとするモダンフェラーリでしたが、残念なことに僕達が到着したと同じくして出発してしまいました。

ところが奥の駐車場にはスーパーセブンが居たのです。それも1台や2台などではなく大量に(笑)
もちろんスーパーセブンを見るのは初めてではありませんし、ある意味この手のクルマではメジャーなクルマですから何かしらの機会で見掛けてはいます。しかしイベントでコレだけの数を一気に見ることは初めてで、ケイターハムやらロータスに混じってバーキンが居たりとんでもないマシンが混ざっていたりで、もう冷静さなんかどこかへ吹っ飛んでいました(苦笑)

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もう無我夢中でシャッターを切っている僕はあの「小学生時代」に戻っていたようです。

スーパーセブンに惹かれる理由は人それぞれだと思いますが、多くの人は「速い事」を上げるに違いありません。実際にはトップスピードはそれほどではありませんが、加速力はフォーミュラーカー並みで、コーナリングスピードは下手な国産スポーツでも敵わないほどです。全く違うのはそのフィーリングだと思います。自動車が登場して快適に速くを目指して来たのに対し、スーパーセブンはどこかでその考え方を辞め、全く違う方向へ進化したクルマだと思います。

7シリーズはその前身Mk-6に端を発するモデルです。
アンソニー・コーリン・ブルース・チャプマン(Anthony Colin Bruce Chapman)は1928年5月19日にイギリスのサリー州リッチモンドに生まれました。ひとりっ子だったコトもあり、大切に育てられ、ユニヴァーシティー・ロンドン・カレッジに入学し、構造力学を学ぶ学生になりました。当時、大学までの通学にはバイクを使っていましたが、新入生歓迎のダンスパーティから帰宅途中にタクシーと衝突、大怪我を負ってしまいます。その年のX‘masに両親がプレゼントしたクルマが自動車との初めての出会いとなります。すっかりクルマの魅力に取り憑かれたチャプマンは、クルマの世界にどんどん嵌って行きますが、やはりクルマの維持は当時もそれなりに嵩んだ様で、資金を捻出するために始めたのが“中古車の販売”でした。当時のイギリスではまだ自動車の生産が十分とはいえない時代で、ガソリンにも統制が掛かっていました。それで中古車には人気があり当初はそこそこの成績だったようです。この時期にチャプマンは運転技術だけでなく、セールスやビジネスの基礎知識を身に着けています。
トコロが新車の生産も伸び、ガソリン統制が終了した47年10月に中古車の価格が大暴落してしまいます。中古車の販売に見切りを付けたチャプマンは在庫車の一掃整理をするために大放出するのです。概ね売れたのですが売上げは普段の半分にも満たないほど。しかも、どうしても売れないクルマが残ってしまいました、それは当時でも17年落ちの1928年型オースチン・セブン(登録ナンバーPK3493)でした。古臭いスタイルと10HPのエンジンで売れる可能性などない大古車です。この売れ残ったセブンベースの製作を思い付いたトコロからロータスの歴史は始まったと言って良いと思います。
彼のパートナーだったコーリン・デア、ディレック・ウェットン、ヘイゼル・ウリィアムズの4人で勝手にウリィアムズの家のガレージを使ってほとんどシャシーを作り変えたマシンが完成し、別の車として登録ナンバー(OX9292)を所得し、これが“ロータス”の名を冠した初の自動車となります。彼等はこのクルマを“8”と呼びました。推測ですがオースチン・セブンベースだったので洒落で“8”としたのではないかと思われます。48年にはマイナーレースに参戦し、3戦のみのエントリーとはいえその速さに注目を浴びる事になります。何故、チャプマンが“LOTUS”の名を冠したか語ってはいないのですが、一説に寄ればガールフレンドのヘイゼル・ウリィアムズにつけた“あだ名”が”LOTUS”だたからだと言われています。ロータス(LOTUS)は英語で『蓮』の意味です。ギリシア神話では『ΛΩΤΟΣ(ロートス)』と言い、その実を食べると浮世の苦しみ全てから解放され、夢が叶うとされているのですが、彼女がその「蓮の実」だったのでしょうか。
チャプマン自身はセブンのエンジンでレースを戦うのは役不足と考えていたことから、より強力なエンジンを搭載したモデルを構想します。これがMk-2です。ちょうど時同じくしてカレッジを卒業したチャプマンは工学士を得、徴兵制度のためにパイロットとしてイギリス空軍へ。休暇になるとMk-2の製作に没頭する生活を送ります。これも推測に過ぎませんが、この空軍時代と大学時代の経験がその後のロータスの礎を築いたのではないかと考えています。パワーがない市販エンジンでレーシングマシンを相手にするには徹底的な軽量化を抜きには考えられなかったのですし、航空力学という観点からグランドエフェクトカーが発想されても不思議ではないからです。
49年にはMk-2は完成しましたが、フォード8のエンジンに換わって更にパワーのある10のエンジンを搭載し50年からレースに参戦します。Mk-2は高い戦闘力を発揮し、チャプマンとヘイゼルの手で総合優勝4回、クラス優勝4回と好成績を挙げます。特に1950年6月3日にシルバーストーンで開催されたエイトクラブ主催のレースでは、GPレーサーのブガッティType37と競り合い優勝してしまいます。これによってロータスは注目されるようになります。
チャプマンはこの時マイケル・アレンとナイジェル・アレンの兄弟に出会います。チャプマンはより本格的なレーシングカーの開発、販売に着手し、彼らが所有していた郊外のガレージでMk-3とMk-4を完成させます。

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当時のイギリスは自動車物品税が高額でした。反面自分で組み立てるキットカーの税率が低かったことから、Mk-3、やMk-4はキットカーとしても販売されました。イギリスでバックヤードビルダーが多く誕生する背景にはこのような理由がありました。エンジンを好みで他のエンジンにすることもできたことから人気を博し、特にMk-3は当時のイギリスで人気のあったフォーミュラ750カテゴリで無類の強さを発揮しロータスの名は着実に高まって行きました。本格的なレーシングカー製造販売を目指していたチャプマンはMk-3の成功により、いよいよ市販モデルの構想に着手します。
チャプマンはマイケル・アレンと共に1952年1月1日、ロンドンのホーンジー、トテナム通りにロータスエンジニアリングを設立します。正式な会社組織としてスタートしたロータスですが、このガレージはチャプマンの父親が経営していたホテルの馬小屋跡を使ったものでした。自動車の登場で馬を使うことがなくなりその小屋が残っていたのですが、クルマを2台も入れれば身動きできない狭さでした。しかしロータスの評判は上々で注文が常に舞い込み、工場はフル稼働でした。
そしてここで生まれたのがあのMk-6です。

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Mk-6はそれまでのベース車両の改造シャシーはなく、専用設計されたシャシーを持つ初のモデルです。プロトタイプは順調に完成し、テストを兼ねて1952年7月からレースにエントリーされますが、その年の8月マイケル・アレンが公道で運転中にクラッシュ、これがきっかけとなりアレン兄弟はロータスを離れることになります。
創業メンバの半数を失い、スタート間もないロータスは危機を迎えますが、チャプマンと、その婚約者であるヘイゼル・ウイリアムズを取締役として、そしてエンジニアとして新たにマイク・コスティンとフランク・コスティンの兄弟を迎え、1954年1月1日株式会社として再出発します。奇妙な事にここでも兄弟がやってきています。フランク・コスティンについてはご存知の方も多いと思いますが、デハヴィランドという航空機メーカーの出身です。デハヴィランド在籍当時からレーシングカーの設計を行っていたらしく、風洞実験をデハヴィランドの設備を使って行っていたのは当時としてはかなり先進的だったと思われます。フランクは名作ロータス11やマーチ711の産みの親ですが、ロータスの後ジェム・マーシュと設立したマーコスが初めて発売したスポーツカーは、何と木製モノコックだったそうです。そう、デハヴィランドと言えば木製モノコックの高速双発機「モスキート」の製造元です。コスティンが木製モノコックを選んだのには、デハヴィランドを初めとするイギリス航空産業に於ける木製モノコック構造の技術的裏打ちがあったためとも言えるでしょう。
弟のマイクは後のコスワースの設立者です。
軽量なスペースフレームを持つMk-6は、その高性能とは裏腹に同レベルのライバル車と比べて安価でありプライベートレーサー達に好評をもって受け入れられました。実質的にキットカーの販売で様々なオプションを用意したことも顧客の購入意識に大きく寄与したと思います。何しろMk-6は量産車とはいえ純然たるレーシングカーだったからです。Mk-6は1955年まで製造され、その間100台から110台が出荷されたが、その間ロータスの工場はほぼフル生産であり、経済的にもかなりゆとりができてきました。
そしてMk-6の流れを汲むセブンが登場するのは57年のロンドンモーターショーです。Mk-6譲りのチューブラーフレームにアルミのボディーを貼り付けるセミモノコック構造のクラブマンで、FRPのセミモノコック構造を採用したエリートと同時に発表されます。
スタビライザーとアッパーアームを兼用したダブルウィッシュボーンによるフロントサスペンションと、A形のアームでアクスル(ホーシング)の前後・左右・回転の三方向の力を支える、センターAアーム式のリアリジッドサスペンションが特徴的で、これにより部品点数の削減によるコストダウンと軽量化を兼ねていました。
このセブンからはそれまでの開発コードMk~という名前からMkを省略するようになり、またエリートのようにキャラクターネームが付けられるようになります。フォード製100Eや116Eなどを搭載するベーシックモデルは単に「ロータスセブン」と呼ばれ、更にチューンアップされたコベントリー・クライマックスFWAを積んだ高性能バージョンを「スーパーセブン」と呼び分けていました。 ロータスセブンはシリーズ1~シリーズ4までのモデルチェンジが行われ、いくつかのバリエーションの完成品、またはキットフォームの形態で販売されました。
セブンシリーズもかなりの成功を収めたモデルとなりましたが、イギリスのキットカー優遇制度がなくなるとその販売数に翳りが訪れます。
またチャプマンはセブンを活動資金源として捉えていたのが正直なところで、エリートのように生産コストが嵩むクルマを生産するに比べれば比較的安価に生産できることや、F1への進出によってレース資金が必要だったこともその原因でした。シリーズ2までは順調に売れていたセブンも、66年にはセブンの生産は一時的にストップし、67年には正式に生産終了が発表されています。この年にシリーズ3は発表されるのですが、それはシリーズ2の生産を求めるユーザーの声によるものでした。シリーズ4では、当時、最新のレーシングカー技術を取り入れ、スペースフレーム+FRPボディーが使われ更なる軽量化が試みられています。ロータス社内のモデルナンバーも、当初の7から60に変更されています。ところがシリーズ3以前のクラシカルなセブン像を求めていたユーザーにはシリーズ4は受け入れられず、それに加えてアメリカの5マイル規制によって保安基準が満たせないこともロータスを落胆させるに十分な原因となります。ロータスは国内の需要だけでは不十分と考えていただけにアメリカへの輸出が不可能になったことでセブンの生産を終了することになります。
そのアメリカ市場に対するモデルとして登場したのが以前、記事にも書いたヨーロッパでした。
ロータス社はセブンの生産を終了した際、よりステップアップする為の資金源として、ロータスの代理店であったケイターハム社が1973年にセブンシリーズ4の製造販売権と、在庫部品、製造治具などの生産設備を売却する契約をします。実はケイターハムの経営者グラハム・ニアンはセブンに惚れ込んだ一人で、61年にケイターハムの権利を買い取ってまでセブンを売ろうと思った男です。66年の生産ストップの時にはチャプマンに直談判し再生産と独占販売権の約束まで取り付けています。
ケイターハムはセブンの製造権を獲得するとセブン・カーズを設立し、ロータスのエンブレムの代わりにセブンのバッジをつけた「スーパーセブン」を発売します。しかし当時のケイターハムではFRPボディーを生産するには十分な設備がなく高度なスペースフレームも作るノウハウがありませんでした。シリーズ4のボディー60台程度を生産した時点で生産を打ち切り、比較的製造が容易なアルミボディーのシリーズ3に近いモデルへ移行しています。コレ、実のところ契約上の問題はなかったのか疑問なのですが、特に訴えられたということもなかったようです。またこの点について以下に記載している「バーキン」設立で「ケイターハムとはシリーズ4の製造・販売権利を譲渡したが、シリーズ3以前のモデルは設計図も販売権も譲渡していなかったので商標権以外は問題がなかった」とされていることです。
82年に、チャプマンが心臓発作で死去すると、ロータス社を継いだ妻のヘイゼル・チャプマンは人件費の安い南アフリカに支社を設立し、現地へ移民したイギリス貴族バーキン卿の起こした「バーキン」というレプリカ専門のメーカーに、製作が容易なシリーズ3セブンの再生産を任せる計画を立てます。(バーキン卿の祖父はルマン24時間レースで2度の優勝歴がある車好きである) ヘイゼル・チャプマン、当時のロータスF1ドライバーを招いての発表会のために2台のバーキン社製のロータス セブン シリーズ3が制作されたと言われています。
しかし、アパルトヘイトの問題でロータスの計画そのものが頓挫してしまうと、以後、その時の契約を盾に、バーキンはロータスと関わりなくセブンの生産を続ける事となります。後にケイターハムとの裁判にて、前記の正当性から当然シリーズ3車自体の製造権が認められますが、(スーパー)セブンの名前は、シリーズ4の販売権を正式に購入したケイターハムが使用する事になり、痛み分けで終了しました。この裁判の結果、バーキンのセブンにはホーンボタンの上にステッカーを貼って7の文字を隠しているものがあります。この時やはりセブンのレプリカを生産していたウエストフィールドとも裁判をしていますが、ロータス社と関わりが無く、正当性に欠けるウエストフィールドは敗訴し、ボディデザインを若干変更し、シリーズ4の様なFRPで制作する事となります。
セブンを模したモデルはそれこそ数多く存在し本国イギリスでは、ウエストフィールドなど、低価格で購入出来るセブンに人気が集まり、ケイターハムよりも多い販売台数になった事が、このような裁判に繋がったとされていますが、実際はどうなのでしょう。というのも、ケイターハムがなければ現在までこれほどのセブンが生き残る時代はなかったと思われるからです。またケイターハムこそがロータスから正当にセブンの製造・販売権利を受けたという自負もあると推測します。
チャプマン自身はセブンに対して熱心というわけではなかったようですし、ヨーロッパ以降のロータスが生産したクルマへ早く移行したかったのが本音だったと思われます。事実、ヨーロッパの発表やエランの成功で度々セブンの生産を中止する機会を窺っていますし、正式な生産終了もアナウンスされているのです。チャプマンが熱心でなかったが故に、資金的に苦しかったであろうグラハム・ニアンがセブンの製造・販売権利を購入できたのも原因だろうと思うのです。つまり二束三文に近かったのではないかと。
今も昔もロータスから正式に製造を受け継いだのはケイターハムですし、その後は独自に改良され現在はケイターハムのスーパーセブンと呼ぶ方が相応しいと思います。恐らくロータスからの脱却は85年のリアサスペンションを変更した時点で、既にロータスセブンではなくなったのではないでしょうか。
また模倣して生産したセブンを「ニア・セブン」と呼ぶのですが、これをケイターハムに当てはめるのは少しおかしいと思います。
今回はロータスの創成期に纏わる重要なクルマとしてセブンを取り上げたのですが、何しろ創成期のロータスを記事にする絶好のチャンスだったものですから、結構資料を引っ張り出して纏めました。本によっては事実関係が異なっているものですから、詳細ではまだ間違っていることもあるかも知れません。あのウィキペディアの記述さえ受け取り方の問題と思われる記述もあり微妙です。
細部についてはまだ補足や再リサーチが必要と思う箇所もありますので、今後加筆訂正はありそうです。
それにしてもサラっと終わらせようと思ったのに、調べだすとキリがなくなってしまうんですよね(苦笑)
お陰で「Alfa Romeo Collection2」の記事が全然できてないですが何か(笑)

別窓 | はいっ、ちーづ!ぱぢり! | コメント:6 | トラックバック:0 |
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この記事のコメント
いやぁ、わかります。
私も昔からセブン好きです。(^^)
偶然にも昨日見たところでした。

私も本当にスーパーセブン買おうかと思った時期もありました、ただ悲しいかな、こちらには取扱店が無いので見ることもかないませんでしたね。
(今はありますが)

今はですね、一番欲しいのが「エリーゼ」なんです。
近くに数台走っているのですが、いいですね。

なんか、また無茶苦茶欲しくなってきました。
買えないけど、、、、。(;_;)
2008-10-20 Mon 18:21 | URL | LOHAS20 #-[ 内容変更]
セヴン
いいですねぇ、私も時折無性に欲しくなるクルマです(笑)
しっかし毎度の事ながらIKEAさんの記事は濃ゆ~い内容で関心してしまいます。
でALFAROMEOコレクションの記事はいつかな?と思っていますが何か?(爆)
2008-10-20 Mon 18:44 | URL | こ~んず #JalddpaA[ 内容変更]
LOHAS20さん
クルマ好きでセブンが嫌いな人はいませんよね(笑)
でもチャプマンは違うトコロを見ていたようです。そこがチョット残念なんですよ。

>買おうかと思った時期
僕もあります(笑)何とかすれば手が届くかも、という微妙なお値段も罪ですね。

>エリーゼ
お隣の病院の先生が乗っています。1回取材させてもらえないかと思っているのですがねぇ(笑)
2008-10-20 Mon 19:01 | URL | IKEA #-[ 内容変更]
こ~んずさん
>無性に欲しくなる
僕もコメントで結構書いてますけど「波」ですよ、ホント。

>濃ゆ~い
今回はもっとサラっと逝こうと思っていたんですが、気が付くとこうなっていました(苦笑)
割と誤解というか、ロータスにとってセブンって重要なクルマじゃなかったんですよね。ドル箱としての意義はあったんだけど「本当に作りたくて作った訳」じゃない。
ユーザーとの乖離があったトコロに別の疑問を抱いています。
デロリアンでも見掛けたら、またロータス絡みの記事を書きます(笑)

>いつかな?と思っていますが何か?
いまから書きますが何か(笑)
2008-10-20 Mon 19:08 | URL | IKEA #-[ 内容変更]
バイク乗りもセブンは好きですよ!あれは4輪バイクのようなもんですから(笑)
2008-10-20 Mon 20:43 | URL | きゃつお #-[ 内容変更]
きゃつおさん
>あれは4輪バイクのようなもんですから
だと思います。Fun to driveって突き詰めると『快適性』って凄く影が薄い存在だと思います。
ダイレクト感は市販車ではセブンはトップクラスですし、非快適性でもトップクラスでしょうね(笑)
でも、この部分に惹かれたのがグラハム・ニアンだったことは疑いようがありません。
2008-10-20 Mon 21:20 | URL | IKEA #-[ 内容変更]
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