スポンサーサイト
-------- -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
別窓 | スポンサー広告 |
善意とは何か
2011-03-24 Thu 14:50
非常に難しい問題である。
議論すれば十人十色それぞれの意見もあるだろうし、永遠に終わりのない議論なのかも知れない。
だが自分なりの考え方を整理してみたい。

今回のような大災害が起こると多くの人は困っている人に手を差し伸べたい、という気持ちになるだろう。それは人としての優しさであり素晴らしいと思う。ただ、こういう何かをする(行動)の根底に何があるかを分析しなければならない。
こういう状況を見た人々は非常に感情的になりがちである。それによってバイアスがかかり建設的発想が希薄になり、結果的には感情の空気抜き装置に変化してしまう可能性を指摘しなければならない。
即ち自己感情の補完によって完全な「自己満足」に陥ることがあり得る。それは結果的にそうなることも含めてだ。

脊髄反射的に行動する前に、自分を客観的に捉えて判断することが必要なのだ。

聖書には「して欲しいことを他人に為せ」というのがあり、論語には「それ恕か、己の欲せざる所人に施す勿れ」というのがある。両者は全く逆のスタンスだが言っている事は同じだ。
論語の下りは、弟子の中で最も優れた子貢との会話を平易に著したものである。この会話には前段がある。
「おのれに克ちて、礼に従う、これ仁となす」
孔子は自己を抑えて、ルールに従えばこれが円満になるのだ、と説いている。そこで子貢は「一言にしてもって終身これを行なうべきものありや」と訊ね、先程の「それ恕か?」につながる。「恕」とは許す、あるいは「思いやる」という意味である。
孔子は常に「仁」を徳として説いた。仁とは「一切を包容する分け隔てのない心」である。恕と意味合いが似ているが根底にあるのは「仁」であるとした。仁によって是も非も受け止めることができる、というのであるが、では全て丸呑みにするのか、というのでもない。非は受け入れるだけでなく是へ向かわせなくてはならない。「過ぎた過ちは仕方がないから許す」少なくともこういう意味ではない。

「善意」とはそれによって何でも許される免罪符ではない、と以前に書いた。
例えばくたびれた古着を送るのは正しいだろうか。好みというニーズには応えられないかも知れないが、新品を送るのは常識というものだ。苦しい状況の人に中古品を与えるのは「着る物がないよりあった方が良いだろう」という安易な考え方だ。送られた人にしてみれば「ボロでも着とけ、そういう意味か」と怒りを買うかも知れない。今の生きるか死ぬかの瀬戸際でこちらの意図を深く読み取るような余裕はないだろう。

善意とは思いやりの精神であろう。しかもそれは「自分の立場」ではなく「相手の立場」に立脚していなければ単なる迷惑な「お節介」である。
自分が「何かできることはないか」から「してやる」になる優越性も持ってはいけない。それは差別の精神だと言わねばならない。被災者と非被災者とカテゴライズが好きな日本人は言いそうだが、両者に別けることで見えない溝を作ることになりかねない。立場は常にフラットでなくてはならない。
また「何かすること」が最終目的であってはならない。況して虚偽を行うなど言語道断である。
目的は何なのか。
それは被災した方々への優しい心から発露した「支援」を「相手の立場で考え」支えることである。
そういう自己感情の発散先に変容させては決してならないのである。これまでに様々なケースでこれに近いものが見受けられた。つまり「支援」という名目で何か行動し「達成感」に浸っているだけの「偽善」というものだ。
辛辣に言う。
「支援行動を起こした自分に酔っている」己への自己愛(=エゴ)の発見である。

孔子曰く、『君子はまず徳を慎む、徳あればこれ人有り、人有ればこれ土あり、土有ればこれ財あり、財有ればこれ用あり、徳は本也、利は末也』と

常に心掛けなくてはならないのは痛烈な「自己批判」である。
善意に利があったならそれは「末」也。

別窓 | 東北大震災 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<被災地を襲う第二の災害 | 欧州車貧乏記録簿 | 山形からのメッセージ>>
この記事のコメント
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

この記事のトラックバック
| 欧州車貧乏記録簿 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。